して図書館通いもした。
 一年に足りないこの大音寺前の生活は、のちに「たけくらべ」を生む地盤ともなり、一葉の一生に特別の意義を認められている。同時にここの特殊な猥雑濃厚な生活環境は、一月一月と経つうちに、感受性のつよい一葉の二十こしたばかりの感覚に、極めて隠微な、しかもおそろしいような影響を与えはじめたのも事実ではなかったろうか。
 荒物屋をひらくときの心機一転して裾を高々とはしょりあげたような気分、荷箱をはじめて背負ってみて案外に重きものなりとさらりとしている生活の感情。そういう思い決した颯爽さは、彼女が当時の日記の題を「塵の中」とつけた、全くそのようにしか云いようのない環境のみじめさ、いやしさ、異常性のなかで、勤労の清潔な鋭さを次第に曇らされて行ったのだと思われる。大音寺前の貧は、貧であっても、それは人間の屑のふきあつまりめいた貧で、その一方では、昼夜をわかたぬ廓の繁昌が鳴りとどろいている。界隈に瀰漫している空気には、何とも云えないモラルの虚無的な麻痺が漲っているわけであろう。堅気な、そしてくだける波にさえ花は咲くものを、という思いを抱いている一葉にとって、そういう近所合壁にまじっ
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