あった。とりたててどうというところもない青年だったのが、今は検事試験に及第して正八位、月俸五十円。二十円が百円以上のねうちのあったその頃は、金時計など胸にかけ、もう一度昔の話のよりを戻したげな親しみをみせた。小説出版の費用を出してよいとも云う。しかし一葉の心の中には、その男が憎いのでもないし、我慢の意地をはるというでもなくて、「今にして此人に靡きしたがはん事なさじ」と思う感情がある。母と妹への責任さえ果してしまえば、我を「養ふ人なければ路頭にも伏さん、千家一鉢の食にとつかん。世の中のあだなる富貴栄誉うれはしく捨てゝ小町の末我やりてみたく」と思う一筋のものが在る。
二十六年には、明治の日本文学の流れのなかに極めて生新な芸術的雰囲気をもたらした『文学界』のロマンティシズム運動がおこった。同人は星野天知、北村透谷、島崎藤村、平田禿木、戸川秋骨、馬場孤蝶、上田柳村などで、十九世紀イギリスのロマンティシズム文学、ドイツのロマン派の文学の影響をつたえたものであった。同じ『文学界』の同人たちの間でも、透谷のように主としてバイロンやシェリイにひかれて行ったひとと、藤村、禿木、柳村などのようにキーツ、
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