で作中に見えがくれしている。
宇野千代と林芙美子とはどちらも、時代の進歩的な空気に道を拓かれるようにして婦人作家として出現した人々であった。それにもかかわらず、この二人がその時代的な雰囲気だけをわが身の助けとして、婦人として、芸術そのものの発展の可能についてさえ思いめぐらさず、「女に生れた幸運」やポーズされた「孤立無援」「詩情」を、文筆の商牌としたことは、この人たちばかりの悲劇であるだろうか。
世俗の心情が世路のかたさ、社会内の利害対立、そこからおこる文芸思潮の相剋などから暫くはなれて未来はどうあろうと今このひとときの気のまぎらしをと求めるとき、一人の婦人作家が、くりかえす、私は孤立無援であったという述懐は、そこにひきつける何かの共感をもって響いたにちがいない。云うひとには、その効果が知られてもいたであろう。一定の文学団体に属して、埃を浴び、あるときは避けがたい傷を蒙ったりするよりは、「女であることの幸運」にたよって、その小説は女が書いたのだということにもたれる興味の水脈をつたわって、ジャーナリズムとその購買者に結びついて行ったことは、深く考えさせられる点である。そして、その面で獲
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