いる。この読売新聞に医学士森鴎外がカルデロンの戯曲を翻訳し「調高矣《しらべはたかし》洋絃《ぎたるらの》一曲《ひとふし》。三番続」としてのせていたのが、美妙の插画に対する世論の卑俗猥雑さにつむじをまげて、まだまだ日本人にカルデロンなんか勿体ないというのを、篁村がなだめてつづけさせていることも語られている。鴎外の訳詩集『於母影』の出たのはこの年のことであった。
こういう社会の雰囲気や真実を求めつつ新旧の間で混雑している「婦女の鑑」と見くらべれば、花圃の「藪の鶯」は、当時にあってたしかにそのまとまりのよさでも頭角をぬいた作品であったろう。全体の筋も割合に自然だし人間の感情も日常の常識のなか、その範囲ではリアルである。「藪の鶯」の世界は一種新時代との歩調を合わせ妥協していることも、若い作者花圃の人生態度の分別のよさとともに、まぎれもなく当時指導的な思想として、日本に擡頭しつつあった国粋主義の考えの一応のまとまりを反映しているのである。
「藪の鶯」の作者が、やがて、当時政教社をおこして『日本人』を発刊しはじめた雪嶺三宅雄二郎と結婚した内的必然もこの作をよめばうなずける。「どもりはかわゆい」と思
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