ちにも、その反映を見出していることである。そして、漱石の美と云っているものの要素が、従来の所謂美学上の美を美の要素としているということは、醜と見られているものの要素も極めて常套であることが示されていて、そこに興味がある。
「この美を生命とする俳句的小説」と作者自身云っている作品は、「余」という超然派の一画工が主人公である。「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ」「二十世紀に睡眠が必要ならば二十世紀に出世間的詩味は大切である」そういう人生と芸術への態度をもっている一画工が、旅先で、一美人に邂逅して、之を観察するのだが、自然派の女の観かた描きかたに反撥し、美の女として示されているその志保田の嬢様の姿、気分、動きは、ヨーロッパ風に主我的でもあり、常識家の意表に出るという範囲では気分本位であり、所謂漂々としている。才気も縦横で、伝説の長良《ながら》の乙女のように二人の男に思われれば「淵川へ身を投げるなんてつまらないじゃありませんか」という女である。「あなたならどうしますか」「どうするって、訳ないじゃありませんか。ささだ男もささべ男も、男妾にするばかりですわ」「えらいな」
前へ 次へ
全369ページ中103ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング