も間違いである」という意味をのべている。「肉慾描写について」の意見を求められて、三宅雪嶺氏が「自然派の作家の作品が或種の画に似ていると云われて怒るなどとは卑怯だ。昔から偉い画家たちもそういう画はいくらも描いている。又実際世間におこなわれてもいる。シェイクスピアでも『ヴィナス・エンド・アドニス』を書いた。それを書いたからと云ってシェイクスピアの価値は下らない。ただ彼が其れを書いたのは三十代であった。若いうちはどんなものを書くのもよかろうが、一生そういうものを書いているにも及ぶまい」と常識論を述べているのも、自然主義に対する当時の一般の理解の水準を、おのずから示しているものである。
 フランスにおける自然主義が、宗教と俗見でこね上げられた精神の神聖に対立させて、人間の生物的な獣的面という二元的な見かたで肉体の問題を見たのも、自然科学に機械的に結びついた近代精神の歴史性を語っている。特に日本では、生物的面からの現実曝露が、儒教的な因習への社会的なたたかいとして意企され、一種の人間解放の動きであった。ところが作品の現実のなかでは、描こうとする対象に足をとられすぎた。また自然派の作家たち自身の情
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