けり、さればこそことなる事なき反古紙作り出でても今清少よ、むらさきよとはやし立つる誠は心なしのいかなる底意ありてともしらず、我をたゞ女子《をなご》と斗《ばかり》見るよりのすさび、さればその評のとり所なきこと、疵あれど見えずよき所ありともいひ顕はすことなく、たゞ一葉はうまし、上手なり、余の女どもは更也、男も大かたはかうべを下ぐべきの技倆なり、たゞうまし、上手なりといふ斗《ばかり》その外にはいふ詞なきか、いふべき疵を見出さぬか、いとあやしき事ども也」とも書いている。
 この評への評にも、当時のロマンティシズムの限界が間接にうかがわれる。鴎外も「たけくらべ」に対してはハルトマンの美学をひいての分析は試みず、一葉の完成とそこにある新しさの土台をなしている旧さを捉えず、当時擡頭しかけていた観念小説、社会小説の波に向って、我が文学陣の選手とばかり推したてたのだろう。
 それならば、一葉自身「たけくらべ」に対してどんな客観的な自評を抱懐していたかと云えば、今日私たちがうなずけ得るのは、賞讚への不安と物足りなさの表現ばかりである。正面から異議ありという魯庵を、一葉はきらいな人という自分の感情だけで見ている。一葉の「たけくらべ」以後の成長と発展とはこのような点からみても非常な困難におかれていたと思う。
 題材的に「大つごもり」「にごりえ」「たけくらべ」と移って来た一葉が、初期の月並な和文脈からこの人らしい抑揚の雅俗折衷の文体へと変化しつつ、猶口語の文章にうつり行かなかったところには、作家としての深い必然があったと考えられる。二十九年に終った一葉の二十五歳の生涯を貫いた女としての情感は、外からうけた教養が開化期以後の反動時代で和文系統であったというだけでなく、情緒の構成そのものが、半ば解かれたる如くであって猶二つの脚はしっかりと封建の慣習にとらえられているところからの身もだえ、訴えの曲線をもっている。二つの手二つの脚をのびのびと動かしてうるさいものを払いのけてゆく女の生きかたとはまるで異った抑制と、その抑制をついに溢れ破らんとする力との苦しいかね合いにおかれていて、その情感の綿々たるリズムは、烈しければ烈しいほど、雅俗折衷の調《しら》べにこめ得る格調と曲線とを己《おのれ》の声としなければならない。
 口語というものには近代の論理性があって、文章の構成は立体建築に似ている。心理の追究は可能であるけれども、縷々《るる》とかきくどく雅俗折衷文の余情脈々のリズムは、そのままには存在しない。
 一葉が口語文でかかなかったことを遺憾とする学者もあるだろうけれども、一葉の心情の肉体的曲線そのものが、その一つ前時代の雅俗折衷にあったので、例えば口語体でかかれているただ一つの短篇「この子」をみても、それは考えられると思う。「この子」には一葉らしい才の閃きは小さく見えるけれども、骨格の常識性がいかにもむき出されて、もし一葉が口語の小説をその調子で書きすすめたらば、或は「たけくらべ」を嘗て書いたのはこの同じ人かという感想を与える結果を来したかもしれない。いつしか通俗文学に入ったかもしれないとも思える。一葉には、自分が恋愛について、友情について、人情のあやに対して抱いている人生感の窮極にある旧い常套を我から抉り出す力はなかった。当時のロマンティストたちの影響はそのような一葉の矛盾そのままを美に高める暗黙の作用としてだけ役立ったのであった。
「うら紫」は最後の作であって、このなかに一葉の新しい展開のモメントが蔵されているという意見もあるようだけれど、果してどうであろうか。表現の方から云って、もしこの作品から後に一葉が口語でかくように向ったとして、それが文学として高い峯に近づくためには、「うら紫」のお律の女としての生きかた、その居直りかたに、もう一歩つき進んだ作者の社会的な見解が期待されるのではなかろうか。無言に晴らす女の恨みのつめたい笑いへの共感以上に、自分の愛さえ良人に対して盗みの形で守ろうとしなければならない女の在りようについて、その正当な主張の可能を探ねる方向で、女としての大きい同情と哀憐と正々堂々さが求められるのではなかろうか。そしてそのことは、一葉にあっては、十五歳で萩の舎の門に入り二十五歳でその生を終るまでの複雑をきわめた十年間の生活が、彼女の内面につみ重ねた人生観の飛躍的な大整理、一つの歴史性から次の一つへの質の飛躍を意味しなければならないことであったのだろうと思う。
 三宅花圃と樋口一葉とは、近代日本にとって先駆的な同時代の婦人作家、同門の出身、その上対蹠的な境遇ということから、常に照しあわせ対立してみられて来ている。
 花圃の「藪の鶯」は当時として新しいものであったかもしれないが一種の風俗小説で、芸術としての美、詩情の美は、旧来の日本の女の最後の代表者と
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