て、裏長屋の描写の細部も精密ではあるが一般的である。広津柳浪は既に「残菊」などで心理描写だけの小説を試みているけれども、一葉は、お力の心の浮沈を辿ったその執拗さで源七の心理を追究しようとは試みていない。よしんば源七はあり来りの型どおりの心の動きにあっても、お力が得心ずくで死んだのか、あたりまえの怨の刃で命をおとしたのか、そこが、「にごりえ」のテーマの頂点であろうが、そこを近所の人々のとり沙汰でだけ語らして、作者はそのかげに入ってぼやかして、人魂ばかりに長き恨みをかこつけていることにも関心をひかれる。第五節の終りの、お力が苦しい切ない乱れ心地で夜店の出た賑やかな町を歩いてゆくところの描写は、痛切で生々しく、今日でも実感に訴える感覚のとらえかたとして圧巻である。
「たけくらべ」は、はじめ『文学界』に連載されたものだが、のち、二十九年四月『文芸倶楽部』にまとめて発表されて、遂に一葉の名を不朽にする作品となった。
十ヵ月ほど一文菓子をやって暮した大音寺前の生活は、初めてそういう土地に住んだ一葉の観察眼に、実にくっきりとその朝夕の特殊な気風をうつして見せたにちがいなく、「たけくらべ」の女主人公、大黒屋のみどりをはじめ描かれている少年少女は、その感情のませかたも、動きも、モラルも、風俗もことごとくが、吉原という別天地をめぐる一画の具体的な真の姿として捉えられている。一つ一つの情景が「にごりえ」のような一般性で描かれていず、そのまま舞台へものぼせられると思うほど、立体的に動的で、それらの溌剌とした動きをつつんで、みどりと信如の恋心とも名づけられない稚い日の思いが、雨の日のぬかるみに落ちた友禅の小切れや、門の格子にのこされた一輪の水仙に象徴されて、生新な息ぶきを全篇におくっているのである。
子供から大人にうつりゆく少年少女の心理を小説にかこうという意図そのものが当時にあって前例ない試みであった。一葉はその上に、女が女を描く独自の清らかさとふくみと情とをもって、みどりの少女から娘への肉体と心の推移を描いている。信如と正太郎の境遇や心持の対照、長吉と三五郎との対照、そこには子供の世界を描く大人の側からの感傷的な甘えというものがちっともなくて、子供たちの生活に映っている大人の世界、その中では子供たちも大人の義理や意地立て世過ぎの姿と同じものにまきこまれ動かされ泣き、こらえ生きている。そのような日々の色どりが描き出されているのである。
これまでの作品では、「にごりえ」にしろ一葉の才筆というものが作品の上側に浮いていて、とかく文章をよまされる感じであるが、「たけくらべ」では、文才は描き出されて来るもののかげにしっかりと入っていて、その頃は人々が暗誦までしたという十二章前後の描写も、決してただ口調のよい美文ではない。
明治二十九年と云えば、日本の文学の空気の中に「吉原」はまだ伝統の響をもっていて、読者の感情はその名によって既に或る準備があたえられているところへ、男の作家は何人も見なかった大門そとの長屋暮しの界隈の生活をとらえ、そこに点ぜられたみどりと信如の淡くしかも忘れ難い稚い恋の色彩は、当時の感情にとって、どれほど懐しく馴染ふかく且つそれ故に一層の新鮮さに駭《おど》ろかされるものであったろう。
『早稲田文学』によっていた逍遙などに対立して、ロマン派の文学的傾向に立ってその頃文学の神様のように見られていた森鴎外が、二十九年一月に発行した『めさまし草』三人冗語で「吾はたとへ世の人に一葉崇拝の嘲を受けむまでも、此人に誠の詩人といふ称を惜しまざるなり」と評し、露伴は「此のあたりの文字五六字づゝ技倆上達の霊符として飲ませたきものなり」と称讚した。
「たけくらべ」の抒情の美は、一葉がどれほど大音寺前の見聞をこまかにとりあつめたとしても『文学界』の人々からの情緒的影響なしには決して生れ出なかったものだと思われる。それとともに、今日から眺めかえせば、当時のロマンティシズムがその旧さでも新さでもこの「たけくらべ」一篇にきわまったような形を示しているのも実に意味ふかく考えられる。
後に社会文学・自然主義文学の運動に活躍した内田魯庵などが、大体一葉の芸術の境地に疑問を抱いていて、一葉も魯庵はすきでなかったといわれていることも、時を経た今では公平に私たちを肯かせる必然が感じられるのである。
その頃一葉のまわりの賞讚の声というものは、作者に安らかなよろこびを与えるより以上に不安とその賞め言葉の浮動性を感じさせるほどであったらしく、一見傲慢とも見える苦しさで「たゞ女義太夫に三味の音色はえも聞きわけで、心をくるはすやうなはかなき人々が一時のすさびに取はやすなるらし」と歎じている。「我れを訪ふ人十人に九人まではたゞ女子《をなご》なりといふを喜びてもの珍しさに集《つど》ふ成
前へ
次へ
全93ページ中18ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング