三者の心でみれば、桃水と一葉とのいきさつが心理の微妙な雰囲気でとどめられたものであったからこそ、断たれてのち猶その気持に一葉が深くもたれかかって行ったこともわかる。世間の口さがない批評を蒙る現実の対象が抹殺されてから、却って自分ひとりの心の動きに安心して、勝気で悧溌な一葉が綿々とつきぬ思いを対象のそとへまでも溢れさせて、恋の歌や日記の述懐に表現し、情感に身をうちかけているところも、あわれである。又、いかにも小説でもかこうという若い女性の心情の粘りづよさがあらわれてもいる。
 小説のことで紹介された桃水との一年ばかりの交際は、このようにして一葉の女としての生涯の心理に計らぬ局面をうちひらいたのであったが、小説の方でも、桃水の紹介で、明治二十五年三月「闇桜」がはじめて『武蔵野』という同人雑誌にのった。つづいて四月に「たま襷」七月「五月雨」を同じ雑誌に発表している。「闇桜」「たま襷」「五月雨」などは一生懸命にかかれてはいるが、和文脈の文章に格別の力もないし、物語の筋も当時の所謂小説らしい趣向の域を出ていない。
 一作二作と活字にはなっても反響がないので、一葉は深い不安と失望とで、自分にもし才能がないならば「今から心をあらためて身に応ずべきことを目論みたい」と「闇桜」をかいたとき桃水に相談したりした。どうしてそんなことを、とむしろおどろいて励ますが、一葉は依然として動揺した心持である。「女の身のかゝる事に従事せんはいとあしき事なるを、さりとも家の為なればせんなし。」
 そして何か思うところがあったらしく、俄に妹邦子について蝉表の内職につとめたりした。花圃の世話で『都の花』に「うもれ木」がのったのは、その二十五年の十一月。その原稿料は十一円七十五銭、一枚が二十五銭であった。それがきっかけとなって十二月に「暁月夜」をのせ、その稿料が入ったので、のどかな年越しをしたとかかれている。それを金額にすれば十一円四十銭也であった。
 萩の舎門下の二才媛とうたわれた一人の花圃は二十五年の秋に三宅雪嶺と結婚した。「近日鬼界ヶ島へわたるから」と花圃は諧謔的に云っているけれど、桃水との交際も断った一葉の当時の心持は単純ではなかったろう。その夏に、旧父の在世の頃一葉の聟にという話があって、殆どまとまっていたのを父の歿後利害関係のいきさつでその話はこわれていた渋谷某という男が、一葉を訪ねて来たことがあった。とりたててどうというところもない青年だったのが、今は検事試験に及第して正八位、月俸五十円。二十円が百円以上のねうちのあったその頃は、金時計など胸にかけ、もう一度昔の話のよりを戻したげな親しみをみせた。小説出版の費用を出してよいとも云う。しかし一葉の心の中には、その男が憎いのでもないし、我慢の意地をはるというでもなくて、「今にして此人に靡きしたがはん事なさじ」と思う感情がある。母と妹への責任さえ果してしまえば、我を「養ふ人なければ路頭にも伏さん、千家一鉢の食にとつかん。世の中のあだなる富貴栄誉うれはしく捨てゝ小町の末我やりてみたく」と思う一筋のものが在る。
 二十六年には、明治の日本文学の流れのなかに極めて生新な芸術的雰囲気をもたらした『文学界』のロマンティシズム運動がおこった。同人は星野天知、北村透谷、島崎藤村、平田禿木、戸川秋骨、馬場孤蝶、上田柳村などで、十九世紀イギリスのロマンティシズム文学、ドイツのロマン派の文学の影響をつたえたものであった。同じ『文学界』の同人たちの間でも、透谷のように主としてバイロンやシェリイにひかれて行ったひとと、藤村、禿木、柳村などのようにキーツ、ダンテ、ロセッティ、ウォールタ・ペイタアなどにより多く影響された人々など、資質的な相異はあったが、前時代の文学の影をひいて戯作気質のつきまとっている硯友社の境地にあきたらず、只管《ひたすら》純真な美への傾倒に立って励んで行こうとする若々しい一団であった。
 一葉はこの『文学界』にたのまれて「雪の日」「琴の音」などをのせている。「琴の音」のテーマとなっている芸術至上の情熱は、一葉の芸術観の骨格というべきものであったが、同時にそれは、年齢も一葉と余りちがわない『文学界』の青年たちの情熱でもあった。
 なかでも禿木は一番早く編輯事務のことから一葉のところへ出入りするようになったが、繊細な禿木の情調や人となりは、生活的にずっと深く刻まれている一葉にとって、たのもしい友として感じられるには到らなかったらしい。禿木によって、文学的には硯友社亜流の桃水などより、遙に新しく濁りない空気をもたらされたのであろうが、そのデリケートな脆弱さが、却ってそれとはなしの殺し文句をいうことも知っている桃水の成熟を偲ばせるせいか、一葉の思い出の上に深まる恋の苦しさは、この二十六年が絶頂の如くあった。「名に求めず隠れた
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