がらも、金持ちの子息であって、同じように小説をかいていたとしても、万端整然たる上流貴公子の生活をしていたのであったら、一葉の感情はどう動いて行っただろう。借金とりをさけて、かくれ家にとりちらしたままの男世帯の有様を見せるような桃水のくらしでなかったら、一葉は、師たり兄たりと思う意識の底に、果してあのようなさざなみ立った情緒を経験しただろうか。
日頃から一葉の生活では、自身の環境として身についている庶民風なものと、萩の舎門下としての貴族的なものとが、とけ合うことなく相剋しつづけて来ている。教養そのものの中にさえ、「士族の娘」という意識に立って、彼女を窮屈にしている幾多の古い力が与えられて来ているけれども、一人になった生活感情をさぐってみれば、なかなか逞しく不屈に生きる力ももっている。「我一生は破れに破れて道端に伏す乞食かたゐのそれこそ終生の願ひなりけり」という表現は文学的に気負った感懐で、現実の一葉は、下駄の緒のきれたときの用心にと、いつも小ぎれをもっているという、まめまめしい甲斐性のある気だてであった。一葉という号をきめたとき、花圃が大変いい名じゃありませんか、それは桐の一葉ですかと云うと、そうじゃない葦の一葉ですよ、達磨さんの葦の一葉よ、おあしがないからと小さい声で、これは内緒よと笑うという位の闊達な気持ももっている。
母や妹は平凡な安穏に恋着して朝夕いらだっているのに、そういう浮世の苦労にかかわりなく何ぞというと振袖を着て集る萩の舎の空気の間で、気性の激しい一葉は、気持のどこかにいつもさばさばしない何かをもたされつづけていたことは推察される。桃水のことは友達たちに相当話したらしく、誰かがそれを注意したら、わるくも噂はしてみたいトントンと都々逸で答えてにげたという庶民らしい面目も、一葉の気持の流動のタイプとして見られる一つの活々とした面白さである。
桃水のかくれ家に案内され、長火鉢一つを挾んでの種々の物語。小説「雪の日」よりもっと生彩にあふれた筆で日記に描かれている「雪の日」の情景。そんな住居で、男とさしむかいの半日が、当時のちゃんとした娘としていつもふれられる場面ではなかったからロマンティックな魅力を感じさせたというばかりでなく、一葉をひきつけたもののなかには、そこにありのままの生活がむき出しに示されている工合、とりつくろって冷然とした品よさなどはどこにもなく、女暮しのわが家の日々の充ちている煩わしい体裁などもすてられている趣が、魅力の大きい一部をなしていたと思われる。
そういう生活的な共感として、自然にひかれてゆきながら、桃水との噂がたかまり中島歌子からも云われて、桃水と絶交しなければならなくなったとき、一葉は自分の心の底まで我から見つくそうとは試みなかった。普通の娘、その時分の女のようにそういう濡衣を、「浅ましとも浅まし」「我はじめより彼の人に心許したることもなく、はた恋し床しなどと思ひつることかけてもなかりき」と、師匠の指図どおりに、桃水との交際を断つための行動をしている。
「我李下の冠のいましめを思はず、瓜田に沓をいれたればこそ」「道のさまたげいと多からんに心せでは叶はぬ事よと思ひ定むる時ぞ、かしこう心定りて口惜《くちを》しき事なく、悲しきことなく、くやむことなく恋しきことなく、只|本善《ほんぜん》の善にかへりて、一意に大切なるは親兄弟さては家の為なり。これにつけても我身のなほざりになし難きよ」と、あわれに封建世俗に行いすました心がけに納まろうとしている。明治二十五年という日本の時代がもっていた旧さや矛盾と、一葉自身のうちにあった所謂模範生型の怜悧さがここに発露しているのである。
桃水が金と女にだらしないと悪評を蒙っていたことは事実であったらしい。けれども、一葉に対しては、ある程度の雰囲気をかもしながら、それ以上のことはなく、一葉が愈々《いよいよ》最後の訪問をしたときなどにも、一葉に結婚をすすめている。「今のうき名しばしきゆるとも」二人が生涯一人でいたりすれば「口清うこそ云へ何とも知れた物ならず」と云われるだろう。「お前様嫁入りし給ひてのち、我一人にてあらんとも、哀れ不びんや、女はちかひをも破りたらめど男は操を守りて生涯かくてあるよなどはよもいふ人も候はじとてはゝと打笑ふ」これらの言葉や俤も一葉の心に忘れがたいものとして残されたろう。
桃水と交際を絶ってから、はじめて一葉が自分の心持を恋と知って、悩み、育ってゆく過程を、今井邦子はその人らしい抒情で「樋口一葉」のうちに辿っている。それと反対に、平塚らいてうが、大正二年出版の『円窓より』の中で「彼女の生涯は女の理想(彼女自身の認めた)のため、親兄弟のために自己を殺したもの。彼女の生涯は否定の価値である」と云っているのもその時代のその人らしく面白い。今日の第
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