乏しいのに違いなかった。」
「キャラメル工場から」の作者のこういう人生への律気さ、真面目さは、同じ女給の生活の中から小説をかき出した手近い先輩の婦人作家が、女のそういう境遇さえ、有名な雑誌編輯者が面白く思ってくれるだろうとだけ考えた考えかたと、何たる相異だろう。同じ年に書かれた「レストラン洛陽」は、金魚であり花であると見られる女給の生活にいる女一人一人の現実生活の姿が、粉粧を洗いおとし、錦紗の着物をはぎとった人間生活のいきさつとして描かれた。
感性と筆致の柔軟さと、着実でリアリスティックな気質の裡に一筋貫いていつも鳴っている澄んだ人間意欲のより高いものへの憧れは、窪川稲子の作品を小林多喜二の作品と又ちがった感じで、人々に愛させた。
一九三〇年「四・一六の朝」「幹部女工の涙」、三一年「別れ」、三二年「何を為すべきか」、三四年「押し流さる」等これらの作品には、当時のプロレタリア文学が最前線にもっていた労働階級のテーマが積極的にとりあげられているばかりでなく、どの作品も、階級闘争の間におこる人間葛藤の微妙な心理、モメントが、愛と憎み、明るいものと暗いものとの縺れ発展する形の中に、立体的に把えられ描かれた。小林多喜二が一直線な運動と文学との実践のうちに「蟹工船」につづいて「暴風警戒報」「不在地主」「オルグ」「工場細胞」「地区の人々」「安子」「沼尻村」「党生活者」と、彼の全生活を賭した闘争とその文学を創って行った時期、窪川稲子は、当時の運動が彼女に強いたあらゆる困難とたたかいながら二人の子供をつれて、絶えず窮迫しながら、記憶されるべきこれらの作品を生んで行った。一九三三年、日本のプロレタリア文化運動が全面的に圧殺されてからは、窪川稲子の作品も当然変化をうけた。すべての作家の善意と努力から階級としての表現が抹殺されなければならなくなった。彼女の文学の題材は、依然として勤労する者の生活を描き、その人間的成長の願望を訴えながらも、次第に男女のいきさつにあらわれる旧い不合理に対して、働き生活を担当する女として社会的にとりあげてゆく面に中心をうつして行ったのであった。
窪川稲子のこの時代の作品は、その一つ一つにそれぞれ問題をもちながらも小林多喜二が社会と文学の歴史において、真に新しい本質に立つ到達点として画した線に並んで、どの時代の婦人作家も書くことの出来なかった女としての生活と文学との実質をもったのであった。
このようにして、窪川稲子が清潔、活溌な創作活動を旺盛にはじめたことは、ただ偶然、親切な男の友達たちがその周囲にいたから、というばかりの理由であったのだろうか。友達であるそれらの男の人たちの考えかたと感情との中に、婦人の生活とその創造力について新しい理解が自覚されていた、ということにこそ重大な意味があった。
明治以来、卓越した作品活動を行った婦人作家、詩人はある。一葉は直接『文学界』に属していなかったけれども、擡頭する自然主義の文学潮流に対して、古く新しい『文学界』のロマンティシズムの代表者であったし、『明星』は、晶子の短歌なしにその篝火を輝やかすことは出来なかった。田村俊子がその作品に感覚世界における女の自我を主張したことも、注目されるべき歴史的な意味をもっている。けれども、これらの婦人作家、詩人のうちの一人も、自分の文学理論というものをもち、そのために活動したということはなかった。一葉も晶子、俊子も、みんな純一に勁く創作したけれども、その態度は全く内在的で、自分を導く文学理論としてまとまったものはもたなかった。晶子が「歌のつくりかた」について語っている言葉には、明星派に流れ入った彼女自身の物語はあるが、明星派の芸術理論は、与謝野寛のもち場として、はっきり区分されている。一人のスタエル夫人も、ジョルジ・サンドも、日本の近代文学はもっていなかった。客観的にはいつも偶然に、その人の才能と好機との偶中によって、婦人の創造性は既成の文学のうちに登場して来ていたのであった。
社会的な基盤において芸術を理解し、階級の解放によってより人間らしい生存に達しようとする表現、そのうた、その光る矢として芸術をみるプロレタリア文学の運動は、富貴に対する庶民の貧しさを貧しさのままに、ルンペンの詩として肯定しなかったとおり、この社会で抑えられている大衆のその中で更に圧えられている婦人と青年の芸術の可能性を、重大に考えたのは自然であった。自分たちの陣営から、独自な女選手を送り出そうという個人的な或は党派的な利己的な動機からではなく、人民の半分を占める働く女の脈動として、解放のためにすすむ勤労者の声に合わせてうたう女の声々として、あらゆる芸術面に婦人の能力を導き出そうとした。
プロレタリア文学運動の中には、詩人として北山雅子、一田アキ、後藤郁子、東園満智子
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