ぐいと押し出されて行く十三の少女の、素直で忍耐づよい姿と、同時に、どことも云えずそのリアリスティックな作品全体に溢れている清純な人間らしい向上の熱意が、読者を感動させた。当時にありふれた所謂意識でかかれた小説ではなくて、「キャラメル工場から」は勤労生活の中にある人間、女性の思いからあらわれた生活の小説であった。
「キャラメル工場から」にかかれたように、窪川稲子(佐多)は少女時代から働きつづけた。チャンそばやにお目見得に行った小さい娘の手にじゃが薯をむく庖丁がもちきれなかった。「大きくなったら、またおいで」と片言で云われた。次にやられたのは或る料亭の奥の小間使いであった。そこをやめてから祖母と病身な叔母との暮しで「いっそお半玉《しゃく》になってしまおうと思う」と決心するほど窮迫した。やがて父の許で、自身野ばなしにされたように暮したが、十七で再び東京に現れて彼女は以前小間使として働いた料亭の女中になった。それから、ある輸入商兼書店につとめ、その三年間の生活は、彼女にすきな文学書をよませ、音楽会へ行かせもしたが、彼女をその単調な反覆で絶望させ、自殺したい思いをさせた。中流的な結婚をした。それは、その厭世的な女店員生活からの脱出であったが、変質的な良人との間が苦しくて、一人の女の児をもって離婚した。遊んでいることの出来ない児もちの若い母は、レストランに通いはじめた。「艷々と髪に波をうたせ、水色に紫に錦紗の袖をひるがえし、オーケストラの間をおよぎまわる金魚であり、花である彼女らの一人であった。」
その生活を一年余りつづけたとき、窪川稲子は、雑誌『驢馬』の同人たちと知り合った。中野重治、堀辰雄、西沢隆二、宮木喜久雄、窪川鶴次郎などが同人として、室生犀星、芥川龍之介、萩原朔太郎などの名もつらねられていた。窪川鶴次郎を通じて、『驢馬』は彼女に身近いものとなったのであった。十三の小さい女工は、それより前うちで『中央公論』や『太陽』や『新小説』の小説を拾いよみした。小さい娘をつれたまま芸者遊びに行く俥の上で、頼りない、気分やの父は「お前は女文士にしてやろう」と云ったりした。女店員時代から詩を書いて、「文学をやろうという意志で自分の生活を計画しているというような自覚的なものはなかったけれども」彼女は「文学に対しては高い喜びで接していた。」比較的上流の婦人ばかりで作られていた『火の鳥』という雑誌に、「ビラ撒き」という詩を発表し、『女人芸術』に「お目見得」という小説を書いたりしていた窪川稲子は、良人にはげまされて一少女工を主人公とした小説をかき、中野重治がそれに「キャラメル工場から」と題をつけて、『プロレタリア芸術』にのせた。それが、日本のプロレタリア文学運動の初期の作品の系列のなかで、独特なものとなった「キャラメル工場から」であった。
貧しくて逆境におかれ、しかも伸びようとする願いを胸にあふらしている一人の若い女性として、窪川稲子は、自分が女であるということや、貧しいということや、様々の経験を経て来ているという来歴やらを、どう自分に感じていたのであったろうか。一九二九年、「キャラメル工場から」が出て好評を得た翌月に「自己紹介」というほんの短い小説がかかれた。その小説の背景は、府会選挙に、労農党が勤労者の中から代表を立て、その応援の活動に空腹を忘れ、過労と不眠とをひきずって、私という女主人公も「髪の毛からは絶えず滴が落ち、ちゞみの浴衣をきた肩はぐっしょり濡れ」ながら働いた。その運動も一段落をつげた投票日の朝の懇談会である。一座の男たちが、めいめいの労働経歴の自己紹介をやったあと、女主人公である私の番が来た。彼女は、今日まで経て来た自分の境遇の幾変化について自己紹介した。「下田の読む社会問題などの本をよみはじめましたが、子供の頃から貧乏な生活を続けている私にはそうしたことは、何の疑いもなくすっと入って行けたのであります。しかし、生れた家が小市民根性そのものである勤め人階級であり、その後の殆ど全部の生活も、茶屋奉公とか、女店員とか、カフェーの女とかでありましたので、現在もなお、その小市民根性を多分にもっているのであります。私は今それを、その根性の出るたびに克服すべく心がけております。」そして、この座で、一人の男が、そういう経歴の彼女に対して「その海千山千のみね子氏を」云々と云ったことについて、深く考えている。「海千山千という言葉は売笑婦的にきこえる。Eさんは本当にそうとったのであろうか。」「けれど私は一言云い足せばよかった。そんないろんな境遇の中に置かれたけれど、その間に一度の男女関係も、恋愛さえも下田以前に絶対になかったことを云い足せばよかった。」「もしも生活経験というものが男女関係に対する予想のもとに問題になるならば、私はその点では確かに生活経験が
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