ように書いている。「少くとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である。何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である」
 その「ぼんやりした不安」というものこそは、プロレタリア文学から云えば前時代の本質に立つあらゆる既成作家の胸底に投げられていた痛切なかげではなかっただろうか。都会人の感覚とインテリゲンツィアらしい鋭さ、もろさをもちつつその明敏のゆえに自身の矛盾をごまかせなかった芥川龍之介の三十六歳の死は、有島武郎の場合とはちがったより知的な、知識階級にとってより歴史的な衝撃で人々をうったのであった。
 島崎藤村は、芥川龍之介の死後一年において、昭和四年から、現代文学の一つの記念碑となった「夜明け前」を執筆しはじめた。これはすべての旧いものを押し流すかのように流れはじめたプロレタリア文学に対していかにも藤村らしく、奥歯をかみしめて顔つきはおだやかな抵抗の示しかたであった。藤村は明治維新というものを、馬籠の宿の名主一家の生活に集注して、維新というものの中に生きのこった封建性の側から、執拗に描きはじめたのであった。
 このような激しい新文学運動の波動につれて、日本の婦人作家も、その本質に変化をもちはじめた。年齢で云えば何かの形で第一次大戦後の経済波瀾をうけた一家の中に少女期をすごし、そのことによって境遇上にも平坦な道を失った年代の若い婦人たちが、文学に登場して来た。宇野千代が作品を発表しはじめてから、つづいて中本たか子が新感覚派風の作品から次第にプロレタリア文学に接近しつつ精力的にかき出した。長谷川時雨の主宰した『女人芸術』が全女性進出行進曲を募集したとき、当選した松田解子が、伊豆の大島から上京して、プロレタリア作家として詩と小説を書きはじめた。
 平林たい子の「施療室にて」が、『文芸戦線』にのって、その野性的でつよい筆力を注目されはじめたのは一九二七年頃のことであった。自分の通っていた女学校のある長野県上諏訪町の書店で、赤いバンドをかけた一冊の雑誌を初めて見て平林たい子の受けた刺戟と驚異。埋もれる天才と環境との問題へ目をひらかれ、ひいては女の社会条件とその関係へと心をひろげられて行った過程。「交換手見習」として上京してから二三年のうちに、いつしかアナーキズムの流れにまきこまれ朝鮮や満州を放浪した。その生活をきり上げて文学に精進しようとしていた時代の彼女の窮乏生活、畸形的な探偵小説を時々『新青年』に売ったりしつつ、平林たい子は『文芸戦線』のグループに近づいた。そして彼女の文学的一歩を印した「施療室にて」が生れた。
 一九二五年に書かれた「投げすてよ!」という作品は「色々な意味で苦しんでいた自分にもよびかけ、女性の新境地を描くことをもって」当時新しくおこったプロレタリア文学に「独特の生面をひらく決心をした」作品として、作者自身にも評価されている。「投げすてよ!」は、この作者の代表作である「施療室にて」などとともに、アナーキストである男と朝鮮、満州を放浪した時代の生活を描きつつそこから何かの方面へ脱け出て行こうとする一人の若い女性のもがきを描いたものであった。
 この作品に描き出されている男女の関係は苦しく混乱し、虚無的である。「布団で押えつけられるような息苦しい小村の愛がどろ/\と淀んでいたばかりであった。女をまもる為には、思想までを古着のように売飛ばす痴者を光代はしみ/″\と自分の傍に感じた。」しかし、そう感じながら光代はその夫について、大連まで放浪して行く。「腹の子はどうするか」「彼を失って自分の生活は果して幸福かしら」そんなことにも心をとられる「意力のない、男性の一所有物にすぎないはかない女を光代は驚いて自分自身の中に見た。」そのように自分を見ている作者の感情には、前途のない旅立ちの前、船つき場で荷物を乱暴になげとばしている「人足の動作にまで自分に訓えている意味を感じて」それを「フヽンと鼻でわらった」人生への角度なのであった。
 殖民地の鉄道会社でシャベルをもって働くようになると、小村という男はそこの経営主である義兄の気分に媚びて日常的に益々無意力になりつつ、その力ない鬱積を洩して何か書きちらしたノートを義兄に密告されてとらわれてゆく。お光! お光! と呼びすてられて姙娠の身をこきつかわれていた光代は、その家を追われ、婦人ホームへ身をよせる。「小村からは顔を掩いたいようなあわれみを乞う調子の手紙」が来るのであるが、光代は、自身に向ってあらゆる感傷を投げすてよ! と叫びかけ、自分の足の上に立った婦人としての道を進もうと決心する心持で、その小説は結ばれているのである。
 一九二七年にかかれた「嘲る」という短篇は、大正末から昭和のはじめ頃のアナーキストの群の生活感情、ものの考えかたを、そのうちに息づいた女の側からむき出しに描いていて、これま
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