「鉄の話」、黒島伝治の特色ある反戦的短篇があらわれたのもこの時代である。
殆どすべてが二十代の精鋭な新進によって押しすすめられていたプロレタリア文学運動の動きは、どんなにそれの未熟さを悪罵しようとも、旧い文壇にとっての脅威であることはかくせない事実であった。大震災からのち、沈滞した既成文壇では、自己批判がおこって、文壇の沈滞を打破せよという声となった。しかし、これらの人々は文学の旧さ、生活と文学とに対する陳腐なくりかえしを、何の力で、どういう風に打破すればよかったのだろう。佐藤春夫は、作家の経済的基礎の改善を云った。それに対して中村武羅夫は、作家の日常生活が余り常識になずんで、人生に対する冒険心を失ってしまっている点をあげて論じた。だがその中村武羅夫は、民衆の芸術時代から、最も頑固な芸術至上主義者であり、小市民的常識に反抗する文学に反抗しつづけて来ている人ではないだろうか。旧い文学からの脱皮は、話題となりつつ、各作家にとって真実の精魂を奮い立たせる熱情とならず、却って、久米正雄その他の有名作家の一団が麻雀賭博の廉で召喚されるという有様であった。
「貧しき人々の群」でロマンティックな人道主義に立って出発した中條百合子(宮本)は、ごく自然発生に生活と文学との統一的な成長を欲求しているばかりで、直接プロレタリア文学の潮流については何も知らなかった。五六年間の封鎖されたような結婚生活の中で苦しみ、やがて離婚して長篇「伸子」を書いていた。
「伸子」の作者よりも、より知識的な生活環境をもっていた年上の野上彌生子が、無産階級文学の運動にある注目をはらい、「邯鄲」などを書いたのに比べると、「伸子」の作者は全く何も知らず、従って無産階級芸術運動に対する批判も反撥ももたなかった。「伸子」の作者は、階級というものを観念として知らなかったばかりでなく、自身のうちに自覚していなかった。そしてただ、その熱望のさし示すままに、一人の若い女性が、中流の常套と社会通念の型を不如意に感じ、そこから身をほどいて一個の人間であろうとする「伸子」をかきはじめたのであった。
網野菊の「光子」が、過去七八年間の作品を集めて出版されたのもこの時期であった。幼いとき生母に悲しい事情で生別した光子という少女が、下町の町家暮しの環境のなかで、高等教育もうけながら、日本の伝統の深い複雑な家庭のいきさつに揉まれながら、次第に一人の女として成長して来る生活のいろいろの断面が語られている。志賀直哉に師事したこの作家の作風は、甘さと誇張のない地味な、要約してリアルな描写力をもっている。婦人作家に共通な多弁や情緒の誇示、ポーズのない純潔な筆致であるけれども、その筆致に力を与え、テーマを人間的に一段高める気魄、常識以上の人生への態度のつよさが不足している。そのうらみは「光子」にも感じられた。
昭和二年七月におこった芥川龍之介の自殺は、そういう時代の空気に深刻な衝撃をもたらした。彼はプロレタリア文学運動に対して単純な保守ではあり得なかった。単純に反動であり得るために芥川龍之介は聰明すぎた。「敵のエゴイズムを看破すると共に味方のエゴイズムをも看破する必要」と云い、もし善玉、悪玉に分けてしまえるならば「天下はまことに簡単なり。簡単なるには相違なけれど――否日本の文壇も自然主義の洗礼は受けし筈なり」という附言とともに、「蒼生と悲喜を同うするは軽蔑すべきことなりや否や。僕は如何に考ふるとも、彫虫の末技に誇るよりは高等なることを信ずるものなり」と云った。同時に「新感覚派」の試みに対しても、芥川龍之介は、芸術上の冒険の一つとしての注目を示している。
彼は、自身の日常生活にある旧套の重荷についても知っていた。しかしながら、彼はその気質から、例え彫虫の末技に誇るよりは高等なる本質を認める文学の傾向に対しても、やはり最後には、自身の知的な優越に立って無限の皮肉を含みながら「唯、幸に記憶せよ。僕はあらゆる至上主義者にも尊敬と好意とを有することを」と云わずにいられないものを持っていたことは、悲しき彼の矛盾であった。同時代人の知っているほどのことなら知らぬことなく知ろうとする芥川龍之介の負けずぎらい、同じ時代の久米正雄、菊池寛等が大衆小説にうつり、菊池の「文芸春秋」などが企業として伸びてゆくのに対して、あくまで芸術的な短篇作家としての境地を守り、「玄鶴山房」のような作品を生み、やがて「歯車」「或る阿呆の一生」などを書いていた。ゲエテのみならずあらゆる傑出した万人を気取るものなりと、諧謔のうちに本音をはいている彼として、如何なる力を奮い立てれば新しい歴史の頁から溢れはじめた澎湃たるプロレタリア文学運動に対してその天才主義を完うすることが可能であると思えただろうか。
遺稿となった「或旧友へ送る手記」の中で彼は次の
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