も間違いである」という意味をのべている。「肉慾描写について」の意見を求められて、三宅雪嶺氏が「自然派の作家の作品が或種の画に似ていると云われて怒るなどとは卑怯だ。昔から偉い画家たちもそういう画はいくらも描いている。又実際世間におこなわれてもいる。シェイクスピアでも『ヴィナス・エンド・アドニス』を書いた。それを書いたからと云ってシェイクスピアの価値は下らない。ただ彼が其れを書いたのは三十代であった。若いうちはどんなものを書くのもよかろうが、一生そういうものを書いているにも及ぶまい」と常識論を述べているのも、自然主義に対する当時の一般の理解の水準を、おのずから示しているものである。
 フランスにおける自然主義が、宗教と俗見でこね上げられた精神の神聖に対立させて、人間の生物的な獣的面という二元的な見かたで肉体の問題を見たのも、自然科学に機械的に結びついた近代精神の歴史性を語っている。特に日本では、生物的面からの現実曝露が、儒教的な因習への社会的なたたかいとして意企され、一種の人間解放の動きであった。ところが作品の現実のなかでは、描こうとする対象に足をとられすぎた。また自然派の作家たち自身の情感の組立のうちに、古い鎖がひかれていて、性的葛藤をこめて全体の社会的現実をみる新しい力が十分芽立っていなかった。何故人間の肉慾をも描くかという、以前における近代精神の問題は狭い経験主義の光りの下では、対象を扱いきれなかった。
 漱石の「草枕」は、当時自然主義文学に対して、はっきり対蹠的なものの典型としての計画のもとに書かれた作品であった。ホトトギス派の写生文が現実の悲喜に対して、傍見的な鑑賞の態度を主張したのは、自然主義擡頭と併行した現象であった。漱石の「草枕」は、自然派の小説が「唯真を写しさえすれば仮令些の美しい感じを伝えなくとも構わぬわけだ」というらしいのに対して、「文学にして、苟も美を現わす人間のエキスプレッションの一部分である以上は、」「小説もまた美しい感じを与えるものでなければなるまい。」「私の『草枕』は世間普通にいう小説とは全く反対の意味で書いたのである。唯一種の感じ――美しい感じが読者の頭に残りさえすればよい。」そういう目的で書かれた。
 この「草枕」が文学史にとって興味深い点は、当時の思想のあらゆる面に強調してあらわれていた二元性が、この美と醜と対立させた漱石の観念のうちにも、その反映を見出していることである。そして、漱石の美と云っているものの要素が、従来の所謂美学上の美を美の要素としているということは、醜と見られているものの要素も極めて常套であることが示されていて、そこに興味がある。
「この美を生命とする俳句的小説」と作者自身云っている作品は、「余」という超然派の一画工が主人公である。「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ」「二十世紀に睡眠が必要ならば二十世紀に出世間的詩味は大切である」そういう人生と芸術への態度をもっている一画工が、旅先で、一美人に邂逅して、之を観察するのだが、自然派の女の観かた描きかたに反撥し、美の女として示されているその志保田の嬢様の姿、気分、動きは、ヨーロッパ風に主我的でもあり、常識家の意表に出るという範囲では気分本位であり、所謂漂々としている。才気も縦横で、伝説の長良《ながら》の乙女のように二人の男に思われれば「淵川へ身を投げるなんてつまらないじゃありませんか」という女である。「あなたならどうしますか」「どうするって、訳ないじゃありませんか。ささだ男もささべ男も、男妾にするばかりですわ」「えらいな」「えらかあない、当り前ですわ」そういう会話がとり交されている室の外で、鶯が高く声を張ってつづけさまに囀る。那美さんというその女は「あれが本当の歌です」という。長良の乙女のあわれな歌は、本当の歌ではないという意味である。更にこの美人は、禅寺に出入りしていて、坊主に懸想されたとき、そんなに可愛いなら仏様の前で一緒に寝ようと、泰安さんの頸っ玉へかじりついたひとである。現実と自分との間に三尺のへだたりをおき、恋という人情からも「間三尺」へだてて美を味っている画家の所謂非人情を理解して、しかもその距離では、惜しげもなく自身の美に耽っている女である。
 この那美という女の姿は、短篇「琴の空音」の中の女主人公にも似ており、「虞美人草」の藤尾とも血脈をひいている。周囲の俗眼から奇矯とみられることにひるまない女、思うままに云い、好むるままに行い、東洋と西欧との教養がとけあっている女。漱石が描こうとしたその種の女の美は、当時にあっていかにも知的であったろうし、ロマンティックであったにもちがいない。今日みれば、明治の四十年代という時代の知識人が、一般にはまだ低くくろずんで眠らされていた女の世界から、僅かに誘
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