ふかいものであった。
 永井荷風「地獄の花」を出しゾライズムを唱う、と記録されているのは明治三十五年のことである。
 花袋が「露骨なる描写」を主張して立ったのが三十七年であった。
 日露戦争は、近代資本主義の一歩前進として日本の社会生活全般を震撼させた。それが表面の勝利をもって終った三十八年には日比谷の焼打事件があった。その囂々とした世間の物音をききながら、漱石の「吾輩は猫である」が『ホトトギス』にのりはじめ、藤村が独特の粘りづよさで当時の環境とたたかいながら「破戒」を完成したのは、翌三十九年である。泡鳴が「神秘的半獣主義」という論文を書いたのもこの年であったし、明治三十九年という年は、自然主義大いに興った年として特記されている。
 四十年の文学の舞台では、正宗白鳥、徳田秋声、国木田独歩、真山青果、二葉亭四迷の活動が刮目されて、花袋の「蒲団」と二葉亭四迷の「平凡」は文学史的な意味をもった。こうして、四十一年になると藤村は「春」正宗白鳥は「何処へ」「二家族」、花袋は「生」等をもって、長谷川天溪の論文などとともに、自然主義の完成期を示した。
 しかし、この自然主義の完成期、成熟期はまことに短かった。或る一定の期間、その成熟した活力によって幾多の傑れた実を生むまでの継続した期間がなくて、社会の圧迫よりも本能の圧迫を感じると叫んでいた花袋でさえ、僅か三年後の明治四十四年には、「男女の魂の問題を題材とするようになった」。つづいて激しい精神的動揺の数年を経て、一九一七年大正六年ごろには遂に「自然主義的なものを逸脱し、宗教的、哲学的」となって行ったのであった。
 自然主義が、客観的描写をとおして、現実の真に迫ろうとしつつ、平板、瑣末、所謂暗い面の一方的な強調、単なる露骨さに陥ったということには、自然主義そのものが本来ふくんでいた現実の観かたの不十分さ、創作方法上の未熟さと、更に結びついて日本独自な伝統からもたらされた現実に対しての受動的な文学態度との関係があった。あれだけの熱風を捲きおこして、より広い、より多様な人間性の活躍の素地を拓いた運動が、新しい領野で一層豊富な近代のリアリズムへ伸び得なかったのは何故であったろう。その後、自然主義文学以前には思っても見られなかった闊達な文学的雰囲気の裡に育った若い世代が、ネオ・ロマンティシズムと呼ばれた唯美的、頽廃的、神秘的な傾向へ転化して
前へ 次へ
全185ページ中49ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング