行って、耽美的な「刺青」(谷崎潤一郎)、題そのものが作品の色どりを物語っているような三重吉の「千代紙」「赤い鳥」、夢幻的な気分で貫かれた秋田雨雀の作品、小川未明の作品などに、次代の声々をあげはじめたのは、何故であったろうか。そこには、漱石が、「自然派伝奇派の交渉」で語っているように、自然主義とロマンティシズムとは「対生に来る――互いちがいに来るのが順当《ノーマル》の状態」というばかりで説明され得ないものがあった。明治四十三年に出た永井荷風の「冷笑」の序はこういう一節をもって現れた。「自分の著作『冷笑』は享楽主義をのみ歌ったものではない。寧ろ享楽主義の主人公が風土の空気に余儀なくせられて、川柳式のあきらめと生悟りに入ろうとする苦悶と悲哀とを語ろうとしたものである。」嘗て誰よりも早くゾライズムを唱えた荷風は、こうして社会批評の精神の放棄を自ら告げているのであるが、彼をこめての当時の若い作家たちの生活感情には、四十三年の幸徳事件以後、日本の社会に猛威をふるいはじめた反動保守の力が、微妙で強力な作用を及ぼした。当時は、科学書『昆虫社会』という本が「社会」というおしまいの二字のために禁止されたという有様であった。一旦自然主義の濤に洗われて目ざめた若い男女の個性、自我、つよく味い、つよく生きんとする欲求も、おのずから発展の方向を限られて、社会的現実から逃避したロマンティックな傾きに趨《はし》らざるを得なかった事情も肯ける。自然主義から流れ出たリアリズムへの道は、四十年代の色彩濃いネオ・ロマンティシズムの芸術の世界を、地味に縫いとって徐々にすすめられて行った。既に知りつくされているとおり、自然主義は、所謂自然派の人々の間にもいくとおりもの見解をもって理解されていた。しかし、現実曝露の核心が、主として男女間の性的交渉の、感覚上の経験の告白におかれたことは、その目立った特徴であった。当時の表現をかりれば、肉の悩みを露骨に描いたのであったが、この傾向が当時の知識人の間に与えた印象は興味ふかいものがある。「読者より見たる自然派の小説」という題目で『文章世界』が、諸家の感想をあつめたとき、柳田国男氏は「自然主義小説に第一ありがたいことは人物事象の取扱いかたが超然としていること」第二に「大団円のつかない小説が通りはじめたこと」をあげて、最後に「自然派というと肉慾を書かなければならないと思うの
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