以後、折々の芸術談にうかがわれる。『女学世界』の記者が、女流詩人の選手として晶子に作歌上の心がけを訊ねたとき、立派な歌を学ぶことと並べて、自分は自然にひとりでに歌をつくっているという一点を強調している。与謝野寛が丁度大阪に行っているときかで、そういうむずかしいことは主人にきいて下さい、お前がまた妙なことを云ったと叱られますから、という意味の言葉で笑い消している。
 婦人の文学上の活動の歴史にとって、何と忘れ難い晶子の答えかたであるだろう。「やは肌の」は感性に溢れる自然発生の積極さはあっても、女の芸術上の自覚としての芸術理論はつかもうとされていない事実は、決して晶子の場合だけではない。そこに、明日の婦人作家への課題も蔵されている。一葉も、芸術に対する気構えはつよくもっていて、その芸術至上の気魄は評伝家たちに高く評価されている。けれども、創作に当っての方法などについての理論はもっていなかった。『文学界』の人々の談論や雰囲気が、従って一葉にとって知られざる創作方法の導きての役割を果して「たけくらべ」も生まれた。
 晶子はその点或は一葉よりも一層受動的ではなかったのだろうか。鉄幹が子規その他のグループに対して行った芸術論争は常に息のあらいものであったらしく、そこには、『明星』終刊に際して岩野泡鳴が「僕は君の雑誌のため黙殺または罵倒されかけたことも度々ありしなれど、あれは皆君が雑誌経営上から来ていたことゝ思はれたにつき」云々と云っているのは一面の真をつたえていると思う、と後年茂吉に云わしむるものもあった様子である。
『明星』は明治四十一年十一月に、満百号で廃刊した。「経費の償はざること一、予が之に要する心労を自己の修養に移さむとすること」が鉄幹の理由であった。ここには、『明星』のロマンティシズムの内容にも既に本質的な分裂としてかくされていた写実的自然主義文芸思潮の成長と、ロマンティシズムに象徴派が影響しはじめた時代の推移が背景として含蓄されているのである。
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御空より半ばはつゞく明《あか》き道
      なかばはくらき流星のみち
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     四、入り乱れた羽搏き
          一九〇七―一九一七(明治四十年代から大正初頭へ)

 近代日本文学の歴史のなかで、自然主義の潮流がその推移の裡に示した姿と役割とは実に複雑で、興味
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