ムの最後の光茫のようにその生涯を終ったのであったが、一葉の死の前後、『文芸倶楽部』の女流小説特輯に作品をつらねたような他の婦人作家たちは、文芸思潮におけるこの大きな変動期を、どのように経過しただろうか。
日本で初めてキリスト教文学と少年少女のための文学を紹介した若松賤子は、「小公子」をのこして一葉と同じ年、三十二歳の生涯を終っている。夢を見るのも英語でゆめみたというほど、開化期の洋風教育を徹底的にうけたこの婦人作家は、『女学雑誌』に啓蒙風な科学物語などをかき、全く病弱な体であったにもかかわらず極めて自然な温和に明るい日本の女らしさのしん[#「しん」に傍点]につよいピューリタン的精神をつつんで、婦人として翻訳文学に消えない足跡をのこした。若松賤子は、ほかの閨秀たちが殆どみな雅俗折衷の文章にとじこもっていたときに、口語体で翻訳をした。その口語文の表現はいかにも自由で漢語の熟語や形容詞にちっともわずらわされず、親密な日常の活々とした表情で駆使されていることは、森鴎外の妹として、明治二十年代の初頭から、訳詩の上に活動した小金井喜美子の名とともに翻訳文学の歴史からも十分評価されるべきことであると思う。
山田美妙との恋愛の紛糾から、習作を未だいくらも脱しない小説をかいていた田沢稲舟が自殺したのは、一葉の死と同じ二十九年の出来事であった。
一葉の死の直後は、日本の文学全体に亙る変動期に入るとともに婦人の文学的活動にも一種の低迷というべき沈滞が生じた。三十四年に与謝野晶子の「みだれ髪」が出て、『明星』のロマンティシズムが婦人の間に或る熱気を喚びさますまで、折々作品を発表した花圃、北田薄氷などとともに、殆ど毎月一篇の短篇を淋しそうに、おとなしく執筆していたのが大塚楠緒子である。
日本で最初の美学専攻者であった大塚保治博士の妻として楠緒子が明治四十三年その生涯を終ったとき、漱石は「あるほどの菊投げ入れよ棺の中」という句をおくって弔った。明治三十八年作の「お百度詣」などは当時の戦争に反対しそれを悲しむ女の心を語った歴史的な性質をさえもっているものだが、境遇が遂に文学を余技の範囲から押し出さず、従って作品の全体がまとめられた文集など、今日では図書館にさえのこっていないことは、女の文学上の努力の果てとして哀愁を覚えさせる。
さて、このようにして『文学界』のロマンティシズムは、その花
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