文脈のうかがわれる小説がのせられているし、藤村自身、詩文集『一葉舟』を出し、文学界には「木曾谿日記」をのせ、やがて小諸義塾へ教師としてゆき、次第に写実的な傾向で小説に固まろうとしている時代である。秋骨は、吾が国現在に主義なく、思想の破るべきなし、「やむなくば理想の世界に遊び、はた力行の世界にかへらんかな」と『文学界』の最終号にかいた。
日清戦争の後の日本の社会的な条件の変化は、各人に各様の刺戟となって、一葉の周囲に僅か一二年は渾然と在り得た文学界同人の方向をも分裂させたのであった。
三十年という年には、新しく子規の『ホトトギス』が創刊され、三十一年には社が東京にうつって、俳句の新運動と写生文が益々活溌な影響を与えはじめた。時代の空気は文学界の同人たちから「洋装の元禄文学」という批判をうけて来た紅葉にも「金色夜叉」をかかせるようになった。蘆花の「不如帰」の出たのは三十二年である。
与謝野鉄幹を中心とする新詩社から『明星』が発刊されたのが三十三年であって、『明星』のぐるりに今日洋画壇の元老たち、藤島武二、結城素明、石井柏亭、児島喜久雄、黒田清輝、岡田三郎助、青木繁、満谷国四郎その他の人々があつまったことも、明治二十九年の日本で初めての光彩ある前期印象派の団体白馬会の生れたことと照しあわせて興味ふかい。
この『明星』は、『文学界』の最終号で、藤村が「あはれなるロマンティシズムの花の種のそこここにちりこぼれたる」と云った、その一つの花の種であることは明かであったが、日清戦争の前と後とでは、ロマンティシズムの種も変化を蒙って、鉄幹の新詩社は、文学界の芸術至上に立つロマンティシズムを気弱だと評した。そして鉄幹は、三十年に発表した詩集『天地玄黄』で、戦勝日本に漲った民族の意識を代表し、新たにうちしたがえられたと思われた土地へ流れひろがろうとする欲望の歌いてとして自身をあらわしたのであった。
鉄幹のそのような「荒男神」ロマンティシズムは、三十四年に有名な「美的生活論」を書いて、後世から支配する者のロマンティシズムとして認められている高山樗牛のロマンティック思想と本質をひとしくするものであり、ロマンティシズムとしての社会的感情の源泉も、はなはだ目前の事象的亢奮に刺戟された支配者的な要素の多いものであった。
樋口一葉は、このような三十年代日本の渾沌の前後、前期ロマンティシズ
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