もいうべき一葉の作品に遠く及ばないというのが定評であると思う。だが「藪の鶯」の新しさそのものが、そこにある思想の本質では明治二十年以前にあった婦人の新しい社会生活への動きが幹で截られたあとに生えた蘖《ひこばえ》にすぎず、しかも蘖《ひこばえ》たる自身の本質について作者は全く無自覚であったということは、「たけくらべ」の作者一葉が、自身のロマンティシズムのうちにふくまれている矛盾について知る力を持っていなかったことといかほど逕庭があるだろう。近代日本の婦人作家の歴史が、このように自ら流れる方向を知らない源から発して、今日に到っているということには、婦人作家たちが経なければならない歴史的運命が、ひととおりならぬものであるということについて十分の暗示をなげていると思われるのである。

     三、短い翼
          一八九七―一九〇六(明治三十年代)

 樋口一葉の亡くなった翌年の明治三十年十二月に編輯され、三十一年一月に発行された『文学界』はそれを最終号として廃刊になった。明治二十六年一月に創刊されて、日本のロマンティシズム運動とともに忘れ難いこの雑誌は、五年間の任務を果し、今やその表紙に竪琴《ハープ》を、扉の口絵にはロセッティなどの絵をのせた姿を消すこととなった。藤村が「告別の辞」をかいた。
 ロセッティ、ハント、ミレエなどがP・R・Bなる詩社を結ぶや、『ジャアム』という名で発刊されていた雑誌は四ヵ月で廃刊にになったが、『文学界』は経済的にも困難な中を五年の間努力して来た。けれども今日の廃刊は「通例柳を折り草を藉きて相惜むの別離に非ず、これ永く相別るるなり。この草紙の終りにのぞみて読者と共に相酌むの酒はこれ再び相見ざるの盃なり」「別離の情は懐旧の情なり」「複雑なる泰西の文化が単純なる固有の思想と相たたかふの跡を見しも、フロオベル、ドオデエ、ゾラ等の奉ずるといふなる実際派の勢力は吾国の小説界にまで著しき傾向を与へんとしつつある様を眺めしも、またあはれなる『ロマンティシズム』の花の種のそこここにちりこぼれたるを見しも、実にこの間にありき。」「まだ百花爛灼たる騒壇に遇はずして先づ住みなれし故郷を辞せんとはすなり。」
 藤村のこの告別の文章は、適切に当時の文学の動きうつりつつあった有様を語っている。
 同じ『文学界』でも、終りに近い号には花袋の「かくれ沼」などという写生
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