風発という工合であったらしい。萩の舎では「ものつゝみの君」という名をつけられた一葉も、文学界の人々とのつき合いでは、なかなか闊達で、自在で、警句も口をついて出たらしい。二十五年ごろ内田魯庵が翻訳した「罪と罰」の話に一葉が興味を示したというのも、おそらくはこういう場面での収穫であったろう。「時は五月十日の夜、月山の端にかげくらく、池に蛙の声しきりて、燈影しば/\風にまたゝくところ、坐するものは」と若い文学界の誰彼の姿をも日記にかいている。
知られているとおり『文学界』のロマンティシズムを貫いて何より熱く流れていたのは、あらゆる封建の習俗への抗議であった。男と女との情愛と云えば肉体的なものしかみず、痴情しかみなかった過去のしきたりとそこから生れた文学への反撥である。女を精神あるものとみて、男と女との愛と呼ぶものに美しい勁い精神の輝きを発露させたいという希望が、『文学界』の雰囲気にどれほど濃くもえ漂っていたかということは、敗れて自殺した透谷の文章に、女性への幻滅がかかれていることにも知られる。
このロマンティシズムが日本の明治二十年後半という時代にあったという特徴は、例えば、藤村の初期の抒情詩のこころと形とが悲しいばかりまざまざと語っている。藤村は、何とうちふるえるような情感のたかまりで、若い男と女のやさしい心の恋をうたっていることだろう。同時に、それらの調子、様式は「お小夜」の黄楊《つげ》の小櫛の古さがまだまだおもくきついなかから、重きが故に愈々その声の響きは遠く高くとあこがれる。そのような当時のロマンティシズムの日本らしい特徴は、同人たちの一葉をかこむ気分にも十分にじみ出していただろうと思う。
一葉が当時の婦人として例外であった作家でしかもその人がらが並々でないこと。一つ家に母や妹はいても、あるじは若い女性の一葉であるという珍しい空気。しかも、その家は若いロマンティストたちの反撥をそそる権門富家ではなくて、親しみやすくつつましい市井の住居で、若い女の一葉が筆ひとつにたよって此世を過してゆこうとしている境遇も、その人々の心をひきつけてゆくものであったにちがいない。
文学論を文学論として一葉は何一つかきとどめていず、自分としてもそういう形でうけとってはいなかったらしいけれども、話の中から一葉が直感的に感覚としてうけた新鮮な刺激、文学的亢奮は決して浅いものでなかった
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