における「私」というものばかりが、半ば封建であった時のまま、狭く小さい「わたし」の中にとじこめられていなければならないわけがどこにあるだろう。一九三九年の時代に、文学の崩壊する無惨な光景の間で、婦人作家に社会性が乏しいからこそ守れたと云われた芸術性は、十年近い歳月を経て、変転した今日の社会事情のうちに、そのままでは決して婦人作家にとって歴史を漕ぎわたらせる船ではあり得なくなって来ている。文学における「私」は、現実にそれが生きているとおり、社会における「私」であることが十分自覚される時になっている。女たる「私」は社会的な意味では複数なるものとして自覚され、しかも、文学の母胎としてはそれぞれの「私」としての独自性がくっきりと、自覚されるべきときにある。
「私」の檻は開かれた。「私」は幾百万の私を底辺としてもち、したがってより強固な、より自覚され豊富にされた自分自身が確立されなければならない。日本の新しい民主主義の特殊な歴史の性格は、ヨーロッパのどの国ともちがう襞の折りめを、日本の婦人の社会生活とその文学の個々に可能としているのである。
この一年間に、日本では四百万人の労働者が組織された。その活動の中で、若い勤労婦人たちのうけもって来た役割と、そこにあらわされた能力とは、目を瞠らせるような速度で発展して来ている。短い時のうちに刻々と推し進む情勢は、今のところ一どきにどっさりの困難を彼女たちに経験させている。勤労婦人の立場から経済的な自覚をもち、未来に勤労人民の自主的な政治の可能性を知り、その実現のために自分たちの実力がどういう意味をもつかということについての理解をもちはじめている。このことは文学における「私」の社会的な拡大と強化のために、重大な意義をもっている事実である。勤労階級の女性として、その胸にたたえられている希望と、計画と憧れとを、婦人雑誌の通俗小説にそそがれる涙や溜息のうちに消費しないで、やがて自分たちの物語として物語り、自分たちのうたとして描き出そうとする意欲も息づいている。社会の生産において生産者であるこれらの若い数百万の勤労婦人は、文化においても、自身の文学をうむ者でありたいと願っているのは、当然のことではないだろうか。勤労青年の中から、小説をかく人が現れて来ている。婦人の作家という文化生産の領域も勤労婦人の中に、その新鮮な地盤をもって拡げられてゆく日も
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