しばられている女や男の「私」を、その枠から解放し、新しくより大きく生きさせる希望と美の力として文学を求めている。衷心のその願いなしに、どんな一人の作家が小説をかき、詩をかいて来ただろう。
 婦人の個性と才能の発揮の願望は、明治以来、日本の文学伝統のなかで、困難な道を辿って来た。一葉のもがき、田村俊子の色彩の濃い自我の主張、らいてうの天才主義の幼稚さえも、女性の生活拡張の願いのあらわれであった。その意味では、婦人作家の女らしさへの追随も文学に於ける堕落さえも、日本の社会においての婦人のたたかいとその勝敗の姿であったと云える。
 プロレタリア文学運動は、男対女の関係から、階級の対立する社会の現実に生きるそれぞれの階級の男女の問題として、婦人と文学との課題もとりあげ直した。今日、日本に云われる新しい民主主義は、ブルジョア民主主義の達成とともに、社会主義の民主主義にうつってゆく歴史の事情におかれている。この事実は民法改正草案一つをとって今日の社会の現実とてらし合わせても明瞭である。福沢諭吉が「女大学」批判を発表した明治三十三年頃、もし今日の民法改正草案が出されたのならば、それは日本の資本主義興隆期と歩調をあわせ、封建的な民法のブルジョア民主的改正として、現実に婦人の生活を支える力ももっていたであろう。けれども、今日、五十年ばかりもおくれて、日本の資本主義経済が、最後の破綻におかれているとき、民法の上でばかり婦人の経済上の権利を認められ、財産の権利を認められたとして、その財産そのものが、日本中の誰の懐で安定を得ているというのだろう。人民層は破産している。婦人の失業は政府の政策として行われて来た。未亡人に対して、子供の母たる孤独な妻に対して、民法上の保護が、実際にどれほど効力を発するだろう。戦災によって住む家もないとき。外地から引あげて来て、貯蓄もないとき。
 婦人も憲法上に独立人であるならば、それを生活の実際としてゆくために、婦人の職場の確保、母性の保護、すべての勤労によって生きる婦人が男と等しく働き、休息する権利を獲なければならないことは、今日すべての婦人の常識となって来ている。家庭の主婦の生活は、働く良人の社会的権利のうちに包括されて認められ守られなければならない。
 婦人の一人一人の「私」がこのように社会的な網の結びめの益々しっかりとした一つ一つであるとすれば婦人の文学
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