ての女に母性があるというならば、女らしい作品を要求されるのであるならば、男をこめての歴史的な傷とそれからの治癒の光となる文学が、婦人によって生れるのが妙なことであり得るだろうか。
それにもかかわらず、既成の婦人作家の大部分は、彼女たちに文学の仕事を可能にしていた妻としての、或は経済的にも成功者としての境遇の条件にすがって、この数年間の婦人大衆の涙とうめきと、笑顔とから遠のいて暮して来た。そして、今日、悪出版の氾濫の流れにのって、その作品を流しはじめたとして、やつれ、皺をふかめた日本の女性の言葉すくない犠牲と、そこからの沈黙の立ち上りに、何の心のよろこびとなり得るだろう。
戦争と一緒に国際結婚の問題、混血児の問題は、少数の家族の間にではあるが恐ろしい経験をもたらした。深い悲劇もある。中里恒子の「まりあんぬ物語」は、まだこの国際的な悲運、偏見、特に日本的な矛盾を、リアルに堂々と描き出し得ていない。その作者の特別な題材と特別な手ぎれいな風情の味わいとしての範囲に止っていることは遺憾である。
また、林芙美子の今日において、彼女の特徴とされていた詩趣というものが、その文学のエレジーとなっていることを、感じない人があろうか。「河沙魚」にしろ「あいびき」にしろ、題材としては、戦争がひきおこした男女の間の苦しい乱れをとりあげつつ、作者は、持ち味としての詩趣[#「詩趣」に傍点]で、テーマを流し、苦悩への人間らしく、文学らしいまともな突こみをそらしている。嫁と間違いをおこしている田舎の農夫の爺について坂口安吾が自分について云うのと同じように、「相手が動物になってしまうと、もう与平にとって哀れでも不憫でもなくなる。意識はひどくさえざえとして来て、自分で、自分がしまいには不愉快になって来るのだ」と読まされるとき、読者は、明らかに愚弄された現実を感じる。孤児の運命、疎開中の家庭の崩壊、嫁舅のいきさつ。どれ一つとして、民衆の負わされている苦難でないものはない。国家の権力は、自分たちの権力でひきおこしたこれらの人間性の破壊を、どんな方法でも収拾しかねている。その今日人々が文学に求めるものは何であろうか。それが直接の解決でないからこそ、方便ぬきの真実をこそ文学に求めている。現実の錯雑と混乱を糊塗せず、そこを貫いて人間らしく生き得る人間真実の現実を文学に求めているのであると思う。小さく、境遇に
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