た、と思うのである。そして、あの幾冊もの小説がかかれた生活経験の上に立つからこそ、こんなに素直に、こんなにまともに、民主的な日本になってゆこうとする社会の可能を迎えている作者の心の真実をいとしく思うのである。どっさりの小説を書いては来ているが、この作者が、その作品の中で「憑きもの」の終り四行に書かれたような表現で、社会の歴史と自分の人生とを照し合わせたのは、恐らくこれが最初のことではないだろうか。
「憑きもの」は網野菊という一人の婦人作家にとって、記念すべき作品であるばかりでなく、日本の大多数の婦人が、封建性を否定する情勢の動きによって、自分たちの運命に重く憑いていたものが何であるかを知りはじめた、その真面目で、率直な記念とも云える作品であると思う。そういう意味では、他のどの婦人作家も書かなかった意義をこめた作品であった。「谷間の店」の大谷藤子、「諸国の天女」その他の詩から、はじめて「帽子と下駄」で小説にうつった永瀬清子、「女一人」の芝木好子、「彌撒」を書いた阿部光子、その他の婦人作家たちの生活と文学も、これからの日本の動きの中では、精力的につよめられ、豊富にされ、のびやかにされてゆく条件も見出せよう。遠い雪山の稜角が日光に閃くような趣の北畠八穂の文学は、素木しづ子の短篇が近代化された姿で思いかえされる。
『新日本文学』の作品コンクールは「死なない蛸」の作者譲原昌子と、「靴音」の作者高山麦子をおくり出した。
『婦人文庫』という雑誌が女流作家の特輯を出したりしているのを見て、心をうたれる思いがある。それはこういう場面に執着している何人かの婦人作家たちは、ジャーナリスティックな意味では、新進であろうのに大変書き馴れていて、その大さなりに殆ど爛熟してしまっている点である。単に筆の上だけでない爛熟が感じられる。どこで、いつの間に、こうして、婦人の生活と文筆の才能とは、頽れるばかりのものとされて来ていたのだろう。
 日本の女として、これまでに負わされて来た名状しがたいほどの苦痛と負担とは、一人一人の婦人作家についてみれば、誰一人として、そこから自由であったものはない。それぞれの形で、その人その人の角度で、みんな苦しく切なく生きて来ている。数百万の婦人たちと同様に。その苦しみは、婦人作家によって最も切実に描かれ、訴えられ、慰藉を与えられる筈だと考えるのは自然でないだろうか。すべ
前へ 次へ
全185ページ中180ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング