らる」と述懐している。
 一葉が中島の塾を手つだって貰う月二円のほかに、賃仕事や下駄の蝉表の内職をして生計の助けとしている母の瀧子や邦子は、一葉の文作をたよって、早くものにしようとしないのを一葉の引こみ思案だとせめたてたのだろうけれど、一葉の心とすれば、「衣食のためになすといへども、雨露しのぐ為の業といへど、拙なるもの誰が目に拙しとみゆらん」とかえりみるだけの鑑識はおのずからあった。
 生活の必要におされて小説をかく覚悟はしたものの、十九の一葉にはまだ小説をかいてゆく創作上の方向、態度などが一向つかめなかったのも無理ないことであった。「かれ尾花」は、小説というよりは一篇の作文であった。題のない習作の方は、会話などもさし入れての試みであるが、これも小説には未《いまだ》しというものである。
 二十四年の四月十一日、萩の舎の人たちが向島へ花見に行った日からつけはじめられて、二十九年七月二十二日、生涯の終る四ヵ月前まで六年間つづいた日記は、一葉にとって初めは小説をかく勉強のつもりだった。「かれ尾花」と同じような流麗ではあるが型にはまった和文脈の文章でかかれている。
 萩の舎へ行かないときは、上野の図書館へ調べものに行ったり、夜はたのまれた仕立物にせいを出したり、そういう朝夕も、小説のことが念頭からはなれない一葉にとって決しておだやかに送り迎えられる一日一日ではなかったろう。
 二十四年の四月十五日に、友達の野々宮菊子の紹介で、初めて半井桃水に会うことになった。半井の妹を菊子が知っているというほどの縁故で、一葉は桃水に自分の小説を見てもらうことになったのであった。
 桃水は当時、朝日新聞に小説を連載していて、小説担当の記者の一人であったらしい。今でいう大衆小説をかいていたのだが、その時代の作家たちのなかで、果してどれほどの文学的存在であったのだろう。
 和歌と小説とは、文学のなかでもおのずから別の分野であるとは云え、明治二十四年というときは、紅葉と露伴、逍遙と鴎外が其々対立して盛に文学の本質論をたたかわせた年であり、『早稲田文学』『しがらみ草紙』などが、新しい日本のロマンチシズム文学の成長の舞台であった。萩の舎のまわりには、一葉の小説勉強のために、師として適当な人選をしてやるだけの親切な人がなかったばかりでなく、萩の舎塾という存在そのものが、当時の若々しく激しいヨーロッパ文学
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