、そのような複雑な女同士の心理を背景としてみれば、肯ける。一葉が「一時間くらいしな[#「しな」に傍点]をして」、小説のことに触れるような触れないような話しかたをしたぎりで、かえって行った時のことを、花圃は、単純率直でない一葉の人柄の一面として見ている。それも当っているだろう。が、私たちが今日遠くはなれた明治のその時代のその環境において、十九か二十だった一葉のそういうとりなしを思いやると、そこには、花圃に泣くなんて下らないと云われても、おのずとせくりあげて来た一葉の涙があったのと同じ心理の翳を感ぜずにはいられない。
たとえば、花圃に向ってしねくねとしながらの言葉づかいにしろ、同門の先輩への敬意というばかりで、ああいう口調になったのだろうか。「藪の鶯」のなかで、逍遙が最も傑出した部分として賞めている女学生たちの会話を見ると、当時でも開化の教育をうけた上流の令嬢たちはお互同士「アラ、よくってヨ。あんまりこもっているから、炭素を追出してやるんだワ。あんな口のへらないこと。」などという調子で喋りあっている。花圃の方ではお夏ちゃんと呼んでも、そのひとの屋敷のうちに田圃まであるような家を訪ねれば、一葉は、卑屈さからではなしに、私も小説をかきたいわ、とはあっさり云えない雰囲気のちがいを、敏感な心に感ぜずにはいられなかったのだろう。これは、時代のふるさ、一葉のふるさとばかりは云い切れないと思う。二人の若い女性は、とことんのところで全く別な二つの世界に住んでいたのだから。支配階級に属す人々の女選手としての花圃。名もない庶民生活に偶然芽生えた才能としての一葉。二人の間に共通な人生はありようなかった。
二十四年の一月に「かれ尾花」というごく短い小説をかき、その四月には、題のつかないままのこされた習作一篇をかいた。その年の「森のした草」という随筆に「小説のことに従事し始めて一年にも近くなりぬ」と云われているから、一葉はその前の年ごろから、積極的にはげましてくれる友達もない中で、到頭小説をかく決心をしたものと思われる。「いまだよに出したるものもなく、我が心ゆくものもなし、親はらからなどの、なれは決断の心うとく、跡のみかへり見ればぞかく月日|斗《ばかり》重ぬるなれ。名人上手と呼ばるゝ人も初作より世にもてはやさるゝべきにはあるまじ。批難せられてこそ、そのあたひも定まるなれなど、くれ/″\もせめ
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