かりを見出そうとして来たすべての人々の善意を、正当な位置と見とおしとにおき直す必要がある。そして、それは、作者の内心に期されている将来への確信やそこに到達する自分としての好みに合うテンポの如何にかかわらず、既に今日、激しく求められているものである。主観的な善意にたよる文学上の危険が、ここに、逆な形で作用することが警戒されてよかろうと思われる。「キャラメル工場から」そして「施療室にて」などが、民主日本の人民の文学の歴史に再び見直されるのは、その作者たちをふくめる日本の民衆が、どこまで遠く歩いて来たか、かえりみてなつかしい昔の道標としての意味なのである。
 過去十二年の間に、抑圧によって、僅か三年九ヵ月しか執筆発表期間をもち得なかった宮本百合子は、「播州平野」「風知草」などを発表した。
 一時、作品の世界も混乱して見えた松田解子は、未発表の長篇を完成させるに程近い。野上彌生子は、軽井沢に疎開生活を送りながら、この作者らしい勤勉さで、最近「狐」「神様」と、譬喩めいた題の作品を発表した。身辺的な限られた別荘村疎開生活者のあれこれであるが、そういう傍観的な環境の中にさえ、時代の変動は様々の形で反映する。その姿と、作者のこれまで黙させられていた平和的な自由市民であることを欲する感覚が、綯《な》い合わされて表現されている。「狐」の若い主人公たちの有閑者としての境遇の変化の偶然性と、元海軍中将であった人の境遇の変化とが、偶然性の上に一致して、同時にテーマの解決ともなっているところは、この作者になじみ深い読者の注目をひかずにいない。「真知子」でも、この作者は、真知子が世俗的に不幸にもならず、経済的不安もなく、その上、良心の満足もあって落着ける条件を、客観的には安易な他動的な偶然の上に発見したのであった。新しい日本の社会の空気と、それが作家に可能にしはじめた数々の偶然のより意味ある必然への転化は、この作者のリアリズムをどのように解放し、発展させるだろう。所謂女らしくなさやアカデミックなことでこの作者をきらっていた幾人かの男の作家たちが、文学そのものを破滅させた激しい現実をとおして、日本の婦人作家たちが、六十歳でなお休息しようとはしていない一人の先輩をもつようになったということは、意味ないことではない。
 一九四六年四月の『世界』に発表された網野菊の「憑きもの」は、ごく短い小説であり、当
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