レタリア文学運動のあった十数年このかた、抑圧されながら根づよく保たれていた進歩的な勤労階級の生活感情に立って、ふっくりとした人間性と、理性の明るさによる気品をもったリアリズムをもって出現している。「暗い絵」のはりつめた神経と自己の追究とは、まだ良心の時代的な過敏さから病的に緊張されているが、その知識人の発展を辿る文学は、決して島木健作の現実糊塗に立った誠実へのポーズでもなければ、小林秀雄の、逆説にもなり得ない饒舌でもない。「私」にあくまで執しつつ、その「私」は歴史の背景の前に社会的な存在として作者に把握され、一箇の「私」は、一定の日本の歴史的な時期における数万の「私」となろうとする可能を示している。旧来の「私」小説からのより社会的な展開の一つの方向がくみとられるのである。
一九四五年八月から今日まで、十六ヵ月余りたつうちに、文学の荒廃のあとから、腐敗する古いものの醗酵のきつい臭いにつれて、青く、小さく、新しく萌え立ち初めた芽がある。その数はまだ少い。けれども、それは生のしるしであり、新しい種の兆候である。
婦人作家は、こういう錯綜の間に、どういう活動を示して来ているのであろうか。
中国への侵略戦争がはじめられて間もなく、左翼運動の理由で検挙され、警察で重体に陥って久しい間病臥にいた平林たい子は、一九四六年の二月の『中央公論』に「終戦日誌」を、『文芸春秋』別冊に「一人行く」を、そして秋には「こういう女」を発表した。
「終戦日誌」は信州に疎開していて八月十五日に遭遇した作者の生活と周囲の状況を記録したもので、それは、本当に日誌の整理されたものであろう。従って芸術作品とすれば未完成というより素材的なものである。信州のその一つの村の中で、軍関係にあった人が、どんなにあわてて、貯金通帳までを焼きすてたか。どんなに流言がとび、どんなに人々が、「誰がかえったかよりも何を貰って来たかに興がった」という現実が記録されている。深夜に急に還って来た弟の素振りの腑におちなさ「あゝわが弟、数年間なる軍隊生活にて何を覚えしにや、悟りしにや」「瘠せて目が落ち、疲れたる寝顔は、我が弟の顔にはあらで『現代日本青年』という題の塑像なり。終戦以来、前途に燃ゆる火ばかり見つめて来りし自分は、ガタリと今石に躓きたる思いがする。足許は暗し、暗し。彼方は明し。」こんな時勢に、真面目に固いことばかりやってい
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