られるか、という弟に対して思わず激しく云い争うが、遂に黙ってそこに転がり、いつか微かな寝息を立てている弟の顔を見下して、作者の胸に湧き立った感慨は、読者をうつ真実性をもっている。「終戦日誌」は小説に描かれるべきたくさんの、当時らしい典型的な光景と人事にみちた一冊のスケッチ帳の趣をもっている。
 久しぶりで検閲をおそれず思うとおりにものが書ける。この激しい歓びは、作者の歓びと雀躍とが大きければ大きいほど、却って作者を舌たらずにし、感動に溺れさせる。「一人行く」の作品としての未熟さは、この作者が、「この世に生きて、苦しんでもがいた印をのこさずに死なれようか」と思いつめて、久しい間の病と闘い抑圧とたたかって来た今日、生けるしるしと作品に向った、その亢奮から結果している。
 作中の主人公私の、病的な亢奮と、作者の気分の高揚とが縺れあって、主観的になりすぎた。しかし、警察から出て、もう帰れない自分の家を電車の上から眺めながらお花さんの家へ行ってからの描写は迫真力をもっている。
「こういう女」は、素材としては「一人行く」とつながりながら、事件としてはその前におこった作者の経験を中心とした作品である。左翼の運動をしている良人が、原因のはっきりしない嫌疑で、くりかえし検挙され、三度目には逃亡した。その身代りに警察にとめられた妻である私が、その逃亡に加担していたばかりでなく、その警察の特高部長が職責上、逃亡を胡魔化そうとした、それにも参画しているというので益々虐待されながら拘留されている。逃亡した良人は、やがて十五日めに自首して来る。「私が捕えられたと知っては、必ず彼がそうするだろうことを私は前から信じていた。またそうも云った。『己惚れてやがる。この女《あま》め』と殴られたこともあったが、やっぱり、私が手綱を握っていることは、たしかだった」そして、「良人が出て来ずにはすまなかった口惜しさと安堵とで、思うさま泣けた」作者のこころもちで終っている。
 日本の治安維持法のひどさは、言語に絶していた。その犠牲の広汎であることは、戦争の犠牲の広汎なのと匹敵した。日本の文学は戦争と治安維持法のために、旧い野蛮な絶対制の権力のために、蹂躙されつくした。今日において、きのうの日本の社会と文化を語る文学作品として、寧ろ、この歴史的時期が真剣にとりあげられなさすぎるのは、奇異な心持さえする。作者たちは、
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