うに思える。
「女性たちも、今後は心と目とを内地からもっと拡げて、一人一人が一騎うちの覚悟で立てるつもりにならなければならないのではなかろうか」当時の窪川稲子の文章にこう云われている。そういう覚悟を文学のこととしたなら、どういうことになるのだろう。『続女性の言葉』というその一巻の中に「満州の少女工」という短文がある。満州の不具の小さい女の子ばかり集めて「満蒙毛織」会社は生産に必要な消耗品である、古新聞再生をやらせている、そこの見物記である。「十歳から十二三歳位の少女たちが、内職をやるあの手早い動作で、古新聞を捲いている。」「その動作はきび/\としている。その手つき、肩のふりかたに、私は気を張った日本のおかみさんの姿を思い出すのであった。一分でも無駄に出来ないというあの気のはりかたである。手の動作はもう機械のようになっている。それが細かな仕事だけに子供らしさが消えている。手の動作を速くするために、腰から上をふって、目を据えている。」読者は、それが同じ作者によって観られている光景であるということから「キャラメル工場から」を思い出さずにはいられない。十三歳のひろ子は、キャラメル工場で、やっぱり、目を据えて、体をふり、寸刻も手をやすめず働く女工たちと生活した。彼女もそうやって少女の肩をはり目をすえて働かねばならなかった。そうして少女たちをこきつかうこと、ましてやすい不具の少女たちを働かせる社長の才覚が、「そして、もっとおもしろいことは、びっこの子供などをこの仕事につかっていることだった」という風に、作者の観察の本質を理解させないほどの奴隷の言葉で表現されなければならないとき、作家の性根というものは、どういう場所におかれていたのだろう。
 新四軍から日本軍に捕えられて働かされている若い女性をこの作者が好意的に描こうとしても、唯若い女の少女っぽい美しさ、可愛らしさとしてしか語れず、僅に、その娘が、今の境遇について「明らさまには申上げられません」と答えた、そのすばしこさに微笑するという位にしかかけないとき、しかもすべて読者は、書かれた範囲で読むしかないものであるとき、文学としての客観的な真実は作者の主観がどうであるにかかわらず、真実として保ち得なかったのであった。
 網野菊が、ジャーナリズムから派遣されて初めの頃満州へ行ったが、その文筆のもち味が、必要なアッピールをもたないという
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