理由からか、その後は却って動員をうけなくてすんだという、笑えない笑い話さえ聞かれた。
一九四五年八月十五日が来た。その年の五月までに民主国家の連合軍によってヨーロッパでナチズムは崩壊し、ファシズムもくずされた。日本の軍事的な天皇支配の権力は、はじめて数年間に及んだ偽りの勝利の面をぬいで、無条件降服した。ポツダム宣言を受諾して、封建的な絶対制をやめること、日本民主化の契約を世界の前にうけ入れたのであった。
二十年の間、日本の大衆の思考力、自由な発言従って自主的な判断を縛り、その生活と思想との近代的な発展を阻んで来た治安維持法は撤廃され、言論と出版と結社の自由とが戻って来た。文学も、よみがえるときが来た。奴隷の言葉、奴隷の習慣が、文学からぬぐいとられるときになった。民主主義文学の翹望は、日本の全社会の生活の進もうとする方向を反映する性質をもっておこって来たのであった。日本の文学の無慚な廃墟のなかに、謂わば下ゆく水とでもいうように、細く、しかし脈々とつづいていた民主的な文学の溪流が、岩の下からせせらぎ出た。「新日本文学会」は、一九四五年の十二月おしつまって結成の大会をもった。
一九四六年一月は、久しぶりで、いくつかの雑誌が再発足をして、文学のための場所も設けられたのであったが、人々が何となくおどろきを感じたことは、先ず永井荷風が、このジャーナリズム再開の花形として登場したことである。荷風の「浮沈」「踊子」「問わずがたり」などが、天下の至宝のように仰々しく掲載された。ひきつづき、正宗白鳥、志賀直哉、宇野浩二などの作品も現れた。一九四六年の初めの三分の一期は、こういう現象が非常に目立った。
中堅と云われる年配の作家たちは、殆ど全部、前線報道の執筆をして来ていたし、治安維持法が撤廃されたからと云って急に擡頭する民主的な新進もあり得ない。戦争にかかわる年齢は幸にすぎていて、経済の安定も保ちとおし、自分の文学をいくらか書きためることの出来ていた荷風が、無傷な、そして営業的に広汎な読者をもつ作家として着目されたのであった。この着目は、戦時中、とくにその後半期に、当時の文学の荒廃につかれた文学愛好者の間に、荷風の古い作品である「腕くらべ」「おかめ笹」などが再び愛読されていた、その機微をとらえたものでもあった。
思えば、荷風という作家は、彼独特のめぐり合わせで、日本の歴史的モメ
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