それは文学そのものの芯をとめる世俗性と俗見の世界への屈伏を意味するであろうということを。何故かと云えば、今日の富と閑暇とは、社会において支配者であり、権力をもつ人々の層に片よって持たれている。支配者と権力者とには彼等のものの考えかたとモラルとがある。それは支配する者らしく考え感じ権力をもちいるものらしく感覚する。そのおきて[#「おきて」に傍点]に服して得た経済の安定や閑暇に、どうしてウルフの希望するような「自由ある習慣」だの「思うことをそのまま書く勇気」などが期待されよう。文学のためにより人間らしい生活のために、真実私たちには、生活の安定と時間と、自由とが必要である。けれども、これらの必要は、既に存在する社会の歪んだ枠の一端に自分の生涯を屈従させることによって獲られたものであっては、明日の社会と文学とにとって、何の価値ももち得ない。私たちの生存の安定、人間らしいゆとりと自由とは、まだ私たちが獲ていない新しい社会生活の現実の価値として私たちにもたらされなければならないのである。人間精神の本質に横わるロマンティシズムというものは、このようにしていまだ人間社会が到達していないより複雑な、より智慧の輝いた社会への私たちの雄々しい憧れとその努力でなくて何であろう。ロマンティシズムがそういう人間らしい本質をもつものでないならば、何故人類に火をもたらしたプロメシウスの伝説が、ホーマーよりも古いギリシャの昔から今日まで幾千年もの間一つの美として人間の歴史に生かされて来たであろうか。
 たとえば林芙美子は獲ているものの僅少な一個の文才ある女性であった。宇野千代も獲ているものは大してない境遇に成長した一人の女性であった。この人々が、今日、嘗て得なかったもの、そして、現在得ているもの、その物質と精神のゆとりによって、どのように芸術の高揚を示しているだろうか。この疑問は、意地わるい詮索と、より深い人間と、文学とに対する問いの性質をもっているのである。

 現世代の文学の土壤は、明治大正から次第に拡大され、特にプロレタリア文学運動がおこって、民衆の文化と文学を主張してからは窪川稲子、平林たい子などの婦人作家を生みながら野沢富美子の生活環境へまでひろがっている。これは、決して偶然のことではない。同時に今日の文学は、野沢富美子の出現と同じように自然発生におかれている。社会と自身との関係、そこに獲
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