る。「若くして死んだキーツだけがただひとり、暮しがよくなかった」「私をして敢て言わしむれば、もしブラウニングが裕福でなかったならば『サウル』や『指輪と本』など書くに至らなかったであろうと思われる」と。
 富裕な教養的有閑というものだけが、人間を発展させ文学を展開させる唯一の「厳粛な事実」であるならば、私たち現代の日本の婦人作家どころか、文学者全体が、一人のこらず人間生活と文学の発展について絶望に陥らなければならない。何故なら、ヴァージニア・ウルフの云うような程度で富裕な婦人作家はおそらくただの一人もいないであろうから。仮にもしそれだけ金銭的に裕福な境遇というものがあれば、彼女をゆたかにしているその境遇の諸条件が、殆ど決して彼女を曲りなりにも一人の作家として生活させないほど、日本の富と保守とは結びついている。それどころか客観的に今日の日本の社会における婦人の生活からは、ますます、有形無形のいろんなものが奪われてゆく傾向なのだから。その第一の雄弁なあらわれこそ、文学における人間性の喪失とその発展方向の喪失である。賢明で、教養と云いならわされた教養は十分もっているウルフが、キーツの時代と今日との間に、どんな大きい歴史の動きがあったか、文学の世代が、本質的にどんなに変って来ているかということについて、全然把握していない点は、私たちをおどろかせる。彼女が婦人作家の新しいタイプとして認めているメアリー・カーマイクルの文学の世界は、メアリーが女性としてこの社会に既に獲ている有利な諸条件の認識から出発しているであろうか。それとも、女性が、まだ獲ていないものについて、獲たいと願うものについて新しい認識が生れていて、そこから彼女の創造がうながされたものだろうか。
 カーマイクルの現実がそうであったように婦人と文学との歴史の過程で重大なのは、寧ろまだ獲ていないものに対して、その世代及び個人がどういう評価と認識をもって、獲て行こうとしたかという点である。これこそ、婦人をこの社会の歴史の中でより人間にしてゆく唯一の道であるし、文学が愈々強く美しく人間発展の希望をうつし、鼓舞するものとなってゆく道である。ヴァージニア・ウルフは知っていなければならない、彼女が婦人の文学的発展のために要求する金銭的安定も教養ある閑暇も、それがもし既成の社会の組立てのうちで求められ、与えられたものであるならば、必ず
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