道行きを辿って再現するが、それがただの映し直し、現象の追随に止まっている原因は、「くれない」の批評に見られたと同じに、今日の文学世代の歴史と社会性とに対する把握の貧寒さから来ているのである。
ヴァージニア・ウルフの文学論では、婦人が自叙伝(としての小説)を書く時代は漸く過ぎたと云われている。けれども、果して今日の世界の歴史と、そのなかに生きるすべての婦人の現実はそういうものだろうか。イギリス文学のなかで常套となってきた自叙伝としての小説は、それは過去のものであるだろう。何故ならば明日の自叙伝は、きのうの自叙伝と全くちがったものである筈だから。一個の「私」はその奥行きと幅とをひろげて、その「私」の生きた時代とその歴史の特徴とを語るものになりつつある。パール・バックの「この誇らかな心」は、現代のアメリカの社会生活のなかにでも、やはりとりあげられるこういうモティーヴのあることを示している。日本の現代文学について云えば、婦人作家は過去の「私小説」の水準でさえ殆どまだ完き自叙伝的小説として書いていない。近代日本の文学の中で、ヨーロッパ文学の到達した点で、自分を知って、その上で書いたという婦人作家は殆どない。すべての婦人作家は、何かの形で自分というものの形成の過程、発見過程を文学にうつして来ているのである。それにもかかわらず、日本の挫かれた社会と文化の事情で、人間性がのびきらないうち、封建性と近代経済の二重の圧力によって、婦人作家は「女心」の擬態から自身を近代的に解放出来ずにいる。
今日の文学が、種々雑多な歪みだの、不如意だのを示しつつ、その姿なりに時代の性格を語り告げていることは意味ふかい真実である。権力がどのように荒々しい力を発揮したにしても、人間とその社会の生活がある限り、文学は息づいている。今日、このようにまで文学の水脈は涸渇させられた。が、この涸渇そのものによってその時代のうけている傷痕を物語るのも文学以外にはないのである。
日本の文学は明治以来、幾変転を重ねた。しかしながら、この一つらなりの跡づけの仕事のうちに明瞭に見られたとおり、日本の真の近代社会としての朝は明治維新によってはもたらされなかった。旧いものと新しいものとは、封建の濃い蔭とそれに絡む資本主義社会の末期的な現象との錯綜の形で私たちすべての社会生活、ものの考えかたや感じかた、精神のポーズにまで影響し
前へ
次へ
全185ページ中161ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング