性の生きかたも、人間の像、文学のリアリティーとして評価されるが、日本の文学、そしてそれが婦人によってかかれた小説では、明子の存在でさえも、日本の習慣の非近代性はもちこたえかねるのだろうか。
 文学以前の問題として、日本のこれまでの社会には、愛の営みとしての夫妻生活の建設が殆どなかった。結婚生活というよりも、あるのはおおかた世帯であった。せまく、小さく、その経済的基礎も弱くて、発展も変化もない世帯は、芸術の醗酵所とはなりかねた。現代日本文学は、「世帯」からの脱出に、徒労なもがきをつづけて来たとさえ思う。世帯という言葉のふくむあらゆる苦々しいしめっぽいものからの完全な脱出は、世帯そのものの本質が社会的に変えられなければ不可能である。美しくのびやかで、創造的な男女の生活関係を心から願うならば、この社会で一人の男一人の女が、これまで在ったよりも、もっともっと人間の自主性に立つことが出来る社会関係全体としての可能がうまれなければならないのと同じに。
「くれない」のテーマが、まだ将来に多くの課題を暗示して、未解決のまま終っていることは、今日、わたし達が生きている日本の社会の歴史的象徴であるとも思える。思いめぐらせば、この作品のテーマは、自身の完全な展開とその解決を可能にする力を、まだ今日の歴史の中には十分もっていないのだ。今日の地平線には、風雲ただならない雲の動きが感じられる。その波瀾を、この作者はどのようにしのぎ、「くれない」のテーマはどのように展開されてゆくのであろうか。
 丹羽文雄その他の数人の作家によって、所謂「系譜小説」と呼ばれる作品が送り出された。それらの作品の主人公が、常に女性であるという事実に、何人かの批評家の注意が向けられている。このことは、些細なようで実に興味ふかい着眼である。そして、系譜小説の作者たちは、それらの女性たちの過ぎ来しかたのあれこれを、その文学によって、ひたすら、しきうつし、なぞっているだけで、そこには一向社会的な視角に立ってのテーマの追究や展開が試みられていないことについても、言及された。
 この社会で同じ一家の推移にしろ、波瀾にしろ、その激しさは一族中で最も受け身な女性の上に容赦ない反応をあらわすという現実が、系譜小説の出現によって暗示されている。現代作家の何人かは、一人の女の一生にうつし出された変転のまざまざとした形象に目をひかれて、その
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