た慣習のためである。けれども、深く現実に眼をくばって見れば、そのように、真剣にくみうつ女性との社会関係がなり立っていない安易さそのものこそ、もっと現代社会の本質のところで、もっとその命の根のそばで、あらゆる彼を息づまらせ、人間性を喪わせ、文学を壊滅させている野蛮な日本の権力の存続を許して来た近代人としての自覚のおくれなのではなかろうか。
やはりこの「くれない」について、婦人の生活に対しては進歩した理解をもっている筈の或る男の作家が、女主人公が、或る朝、二階を掃除しろという広介の言葉にそのまま従わなかった場面をとりあげて、何故素直に箒をとりあげないのだと、不快の感情で批評していたことがあった。この評者は、女房としてお茶をつぐ、つがぬことにこだわる明子に疳を立てて、「自分をそれほど大切にすることが彼女の人間を、彼女の女性としての在りようを、どれだけ高めているか、それは大きな疑問だと思う」と云っている。
こういう批評の中には、筆者たちが現代の日本の社会で中年を越した夫として暮している日常生活の習慣的な気分が思わず溢れて、文芸批評の埒をこえてしまうのは、私たち婦人にとって可笑しくも悲しく、はらだたしい現実である。二階の掃除にすらりと立てない明子の心持は、作品の前後のつながりでは自然なものとして肯けるように描かれている。珍しく子供たちのいない夫婦さし向いの朝の家を新鮮に感じて、若やいでいそいそと興を覚えている明子のそのときの心の初々しいはずみにかかわりなく、妻としては別な女を今や頻りと胸中に描いている広介は、明子が二人きりの朝をよろこんでいる気分に共感しようもなくひどく事務的に、女房に亭主が求めて来たしきたりそのもので、二階がひどいごみだという。その気分のくいちがいで明子はすらりと立てなかったのである。
日本の感情は、どうして文学者である男でさえ、男の云いつけることを、女がおとなしくきく、きかないに対して、こんなにも異様に敏感なのだろう。愛人たちの感情経緯のなかでは、愛の純朴を愚弄するくらいあれやこれやのコケトリーを容認しながら、良人と妻との日ぐらしの姿では、清純な女の愛のこころから行われる行為の選択さえ女の自然な味とうけとられず、女の反抗という感じでうけとられたり、かたくなさとして否定の面にだけみたりするのは、どうしてだろう。翻訳小説の中でなら、どんなに質量のつよい女
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