[#「思いあがった」に傍点]」自分と表現した一句は、いろいろな方面に誤って解釈された。
 この十分に内容をあらわしきっていない「思いあがり」という表現を、作品の全体から判断すれば、現実に社会が今日立っている歴史の限界やその矛盾、そして個性というものもそれからまだ自由になっていない限度や矛盾などが、互にからみあい複雑をきわめる現実の揉み合いに対して、人間、女としての自分の善意に我からたのみすぎた思い上り、対手の広介が、女として自分たちのもっている成長への善意と意欲を常にまともにだけ理解する能力をもっていて、真に新しく美しいものを二人の仲にこそ創りあげようと、いかなる場合いかなる瞬間にも揺がない心情を堅持していると思いこんで、馬鹿正直に生きて来た、その思いあがりを、云っているにほかならないと思われる。しっかりものの女が、いい気になったという世俗の意味での思いあがりの意味ではないことは、明らかに理解される。我々の生きている現代というものの裡に、思いもよらない形に変化しながら、しかも実に重く、長く尾をひいてのしかかって来ている過去の因習の力に対して一人の女が真に人間らしく女らしく生きようとして来た半生の善意が、このような破綻を経験しなければならないとは思い初めなかった、その歎きが、思いあがりとして歎かれる。従って「くれない」の作者の精神の低さというならば、寧ろこういうおくれた社会の歴史の矛盾相剋が反映している作品の世界に、作者がきびしく足どりのつよい客観的な省察をもって触れてゆけないで、明子の思いあがりという風な概括でしか表現していない、そのつましさ、女らしさにこそ、云われるべきである。この「くれない」は女を主人公としたけれども、真実男が現代社会で人間たり男たるにふさわしい生きようをしようと意欲するとき、両性の問題、結婚生活というものの与える問題で、書かれるべき一冊の「くれない」もないのだろうか。この独特なとざしのきつい日本の社会の仕くみの中で、何ごとかを求めて生きて来た男性で、ましてや芸術に携わる男性で、現代の歴史のむごさを我が肌に痛感しなかった人が在るだろうか。ストリンドベリーの亜流が出現せず、ロマン・ローランの末流として擡頭するひともないのは、女性との関係では、或る程度まで思うままにふるまって来て、そのふるまいを理窟づけ、自分を何とか落つかせて来られた日本の旧いおくれ
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