。明子の苦悩が読者の心を強く感動させながら、なお何となしその芸術に普遍性の足りなさを感じさせる弱点は、作者が十分深く広介と明子という男女の客観的に見れば発見されるべき諸矛盾、歴史からのおいめ、二人の男女の進歩している筈の社会観と、それにしては立ちおくれている現実の生活感覚などの錯綜に目をゆきとどかせきっていないところにある。素朴に男性への抗議の書となりきれない程度にまで、作者の心情は社会の歴史と個々の男女生活との関係に目ざめており、同時に広介にひかされているその明子の心情と作者の目とが一つになって、作者の客観的な追求を阻んでいるところに、この作の不十分さもかもされている。
「窪川稲子論」の筆者は決してこの婦人作家に対して不公平であろうとしているのではなかった。「この作者が一心不乱に、女性のなかにかくれ、潜んだ成長の力と云ったものを大切にし、それを顕わそうとしているその意力には打たれない訳にはいかなかった」と語っている。そして、心理的陰翳などの精妙な把え方や描写にあらわれるこの作家の優れた才能の根柢にあって「動かぬ生命それ自身の訴えるような」「結局長く残る美しくて真実なものは」この作家のその意力の美しさであることを語っている。アランの言葉などをひいて、筆者は情感を傾けその点の賞讚を惜しまないのであるけれど、そのようなものとして作者の生きる情熱の本質が見られ得るならば、何故に「くれない」の明子が、自身の努力と生とに絶望するほど苦しがるそのいきさつを、「当然うく可き刑罰で」あると冷酷らしく観ることが出来るのだろう。
理解をもっているらしく見えて、しかもとことんのところで、女の真情を理解しがたくされている日本の社会因習の心理の、その襞の間にこそ、多くの婦人作家たちの、救いがたい今日の「女心」の装いが棲息する場所を見出しているということを、明日への文学の精神は、率直に省みなければならない。
明子が、力んでばかり来た自分の横面がぴしゃっと張り倒されたような思いで泣けて泣けて、「ある時期にふと思い上ったということで自分は人生からこんな復讐を受けねばならないだろうか」と悲歎にくれる。その悲歎を稲子論の筆者は、精神の低いのに高いと思いちがえて、お茶を出すとか出さないとかいう些事にまで自分の成長を意識して来たその刑罰と肯定しているのである。
「くれない」の作者が、この「思いあがった
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