ゆこうという意図で結ばれた夫婦として、登場しているのではないだろうか。昭和十三年に発表されたこの作品は、矛盾だらけの切ない封建日本から、男女をより自由な人間らしさにおく解放運動によって結ばれた広介と明子とを登場させている。自分たち夫婦がそういう積極の意企をもつ男女であるという自覚や、家庭というものをも、それにふさわしいものであらせようとする努力で、明子は「広介と共に、通例の家庭形式とは多少ちがった形式をうち立てていたということを非常に大きな達成のように」錯覚していたと作者は書いている。だが、それは、錯覚であったのだろうか、或は、普通と多少ちがった形式のよって来た真実の動因が、広介と明子との間で、くいちがっていたのではなかったのだろうか。作中の夫妻が作家であるとか、時代的な焦躁から来る矛盾とか云うところに作者が波瀾のモメントを見ていることを、批評は外的なものばかりに眼を外してと云っているが、広介と明子という、生ける一対の男女の生涯にとって、これらの具体的な社会事情は決して単に外的なことでなく、新しい美しい両性生活を建設し、その美しさとよろこびを実証しようとして生きて来た彼等の、肉体、精神の実体的な要因なのであった。広介と明子とがその広介、その明子という二人の男女として作品の世界に登場せられた第一歩からの必然なのである。
 さらに一層沁々とこの作品の空気に身を浸してみれば、「くれない」が男性への抗議ではなくて、むしろ自然発生の要素を多分にもつ女性の苦悩の書にとどまっているところにこそ、却ってこの作品の文学としての弱点が在ることが諒解されて来る。広介は「くれない」のなかで、この作者にして、と思わせるほど現象的な面でしか扱われていない。広介という一個の人物が明子にかかわりあって来る諸面に対して、この作家は明子の側からとしての積極的な性格解剖や心理穿鑿は一行も行っていない。広介という人物は、はっきり明子に向って云ったその言葉、その表情、その行動の範囲でだけ作品に現わされていて、明子はと云えば、全心全身のよろこびと苦しみとをふりしぼって、その広介の言葉、動き、表情に応じている姿があるばかりである。
「突きはなして扱えばまことに発見されるものゝ多い世界」であると評されていることは、作者がもうすこし二人の登場人物を客観的に扱っていたならば、という読者の感想と結びつく性質のものである
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