上主義こそ、現代社会の婦人に辛い生存事情によって最も悪質に蝕まれた結果の現象と云い得るのである。
この深刻な問題を、婦人作家が自ら打破し向上させて行こうとする努力は、どんな多難なものであるかという事実は、窪川稲子の「くれない」と「素足の娘」とをとりあげて書かれた或る批評の文章にもよくうかがわれる。
その文章の筆者によれば、「くれない」も「素足の娘」も、どちらも男性への抗議の書たる性格が最も濃厚だとされている。「現代の女性が自己解放ということに気負い立てば、男性への反撥や、男性との闘争が彼女の不可避の運命と考えられるのは十分に理由のあることだ。しかしそういう考えかたに終始している精神には、或る低さがある。」この作品は、「作者が高まろうとする意気込にもかかわらず、そういう低さを基調とした男性への抗議の書である」と感じとられて、そこから論議が発足している。
「くれない」「素足の娘」これらの作品は、男への抗議の書なのだろうか。私たち女が読めば、あれは男への抗議の書であるよりも、先ず女の苦しみの書であるとしか感じられない。女一人が、女として自分のうちにかくされている可能を見出し、培い、育ててゆこうとする過程に、その社会の歴史のおいめと習俗のきずなが、のびたい女自身の足をからめるばかりか、根本にはそれを助けようとする精神で一緒に暮している筈の男の脚をも引からめて、そこに悲しい相剋紛糾を生む。そういう女の苦しみの文学としか読みようもなく思われる。
「くれない」や「素足の娘」の作者のそれよりも一層高い精神は、男性と女性との間に、反撥や闘争ではない別個の関係を発見するに相違ないし、また別個の新しい、美しい関係を創り出す努力もし、そのための探求もするに相違ない、そういう努力や探求がなくては女性の解放などあり得ない、と、批評の筆者は力説している。けれども、それは現実にどういうものとして在り得ると考えられているだろうか。最も偏見の少い筈の文学の領域でさえも、さきにふれて来たように日本のまだおくれている社会感覚が、様々の角度から男女の作家たちにとって桎梏となっている時に。――
「くれない」の作品の世界に目をやれば、広介と明子という一組の男女は、所謂婦人解放論者の男女対立の関係とはちがう社会的関係を理解し、歴史の進みを示す別個の新しい美しい両性関係をつくり出す可能のある社会条件をうち立てて
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