の生活の型からあふれているのが実際である。彼女たちを昔ながらの女の生活にとりこめようとした世俗常套の枠を、体あたりで打ちこわして来た年々は、彼女たちの多くを、今日檻もないが、同時に、風雨を凌ぐしっかりした庇も定かでない状態に置き放していると思う。世路の辛苦が彼女たちの身にしみていないとは云えない。今日の婦人作家にとって、そんな思いも経て、手ばなさずに来た自身の文学を確立させたいと願う熱意と、生活安定を約束する職業としての文筆の業を確立させたいと思う切実な焦心とは、複雑な心理のかげとなって、文学行路の上に射し落ちて来ている。一生懸命に文学を励んで行くしか生きとおす道はないのだと、健気に思いきわめた情熱は、その熱気で芸術至上の焔をちらつかせると同時に、自身を賭したその文学を、対外的にきわだたせ、存在させてゆこうとするてだてに関しては、やはり今の日本で男の規準がものを云うのだという事実について、苦労を重ねて来ているだけに敏く才覚がめぐるところもあるのはさけがたい。そして、その男の規準の多数決は「女心」に投じられることも学んでいるのである。
現代の婦人作家の多くが、その文学の世界に、一種の純粋な要求と通俗性とを奇妙に入れまぜて持っている理由の一つはそこにある。文学の対外的な確立について、婦人作家がどんな焦慮をひそめているかということは、昨今の婦人作家たちが、はにかみなしに自身が女流作家であるということを作品の中ででも、対世間の応待の中ででも、真先に対手にわからせてゆく態度にも現れて来ている。先ず人間であることからの悲喜と主張とにより立って書き、社会に向って発言しようとして来た態度から移って、岡本かの子の作品には彼女らしい角度と筆致とで、先生と呼ばれ尊敬される自身を描き出しているし、美川きよ、真杉静枝、大田洋子、円地文子などの作品では場合もちがい、各人様々のモメントをもちながら、いずれも女流作家を表に立てて強調している。
そのように、はにかみをすてて職業を強調した姿が、日本の社会歴史の或る段階において婦人が社会に向って積極的に己れを主張してゆく足どりであるというならば、なぜ、その文学の内容が、その積極とは全く矛盾した女心の風情や味いや粉飾にとじこもっているのだろう。田村俊子が書いた「女作者」は、明治以来、しきたりとなって来ているつつましい「女の生きかた」に対して反抗し爆発
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