を深く感じた。そしてそのことはそれでいゝわけなのだろう」と。
ところで、ここに問題なのは、その文学の中に女心を装っている婦人作家たちが、今日男に「かえっていとおしく」思われる効力を自覚しないで、無心に、鏡に向って余念なく化粧する女のようなこころで、女心をその作品のうちに装っているであろうか、ということである。
作中の女を絵中の女としていとおしく思わせる男心の余波を、おのずからその作品を生んだ婦人作家の上にまでひきつけて来るわざを、全く度外において、婦人作家は、おのずから装われた女心のいとおしさにあるのであろうか。
微妙なこの問題の中に、日本の婦人作家は半ば封建と近代文化との奇妙にまじり合った日本の女としての社会的境遇をむき出していると思う。
宇野千代というような作家が、前時代の田村俊子に似たような系統に立ちながら、女心というものを決して「炮烙の刑」のようには表現していない。あのように生々しく、野暮に、女の心の自由を主張してはいない。遙かに世故にたけて、その装いの風情で女としての社会的、文学的存在を守ってゆく方向で出発したことはさきにふれたとおりである。その傾向は、その後文学全体の気流が世智に辛くなり、歴史の波瀾と痙攣とにみたされて来るにつれて、益々己れを守る手法となって来たのは事実であった。
昭和十四年前後のこの期間に、一応目立つ活動を示した婦人作家たちの大部分は、決してきのうきょう文学の道に入った人たちではなかった。略《ほぼ》十年の歳月が閲《けみ》されている。
従って、女としての彼女たちの年齢は、過ぎて来た歳月を、もうとりかえせないものと感じさせていることは疑いない。日本の社会の伝統と慣習、家庭というものの中での婦人の立場などにとって、女が文学の仕事を志すという一事だけでさえ、少くない抵抗と闘って来ている。女の性格に、文学に向うような気質の幾分があるというだけでさえ、今日まで過ぎこした年月の内容は、その婦人たちにとって、成果ないものとして考えるに耐えない苦しいたたかいによって裏づけられていた。世間は、娘は年頃になったら嫁にゆくものとしている。これらの婦人作家たちは、その定石の第一歩から何かの意味で、時には失敗という形で自分を主張して来たであろう。結婚や結婚ならざる両性のいきさつにおいても種々の曲折を経て、婦人作家の多くは、今日の常識が定型としている女性
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