関係にある。現代文学の水準で、「婦人作家らしくない」婦人作家であることは、よかれ、あしかれその婦人作家にとって、より大きな困難を約束することであった。たとえば小山いと子の「オイル・シェール」に対して「女は女のことを書いた方がいゝ」という評言が男の作家にとっても共通であった筈の、もっと重要であった文学上の諸問題をひとくるめに片づけてしまったように。
 昭和十四年の文学涸渇の時期に、婦人作家の作品が目立って関心を惹いた理由の中には、上述の婦人作家への苦言を、逆に返上したような芸術至上主義への愛好、生活感情の狭隘な世界の内側を、綿々と辿り描く文学の味を、やはり芸術性として過大に評価せずにいられない文学全般のおくれ[#「おくれ」に傍点]が暗黙のうちに大きく作用していた。婦人作家によって、芸術至上の欲求をみたされたのちは、それが婦人作家のおくれた社会性の表現である、と云って、批評し得たかのように思った作家たちは、何たる楽天家たちであったろう。そうまで文学の社会性が理解されているのであったら、どうして自身たちの文学が葉を苅りとられ、枝を折られ、その根さえ掘りかえされてゆく権力の暴圧に向って、文学を守って立とうとしなかったのだろう。「人間の復興」の時代から既に失われていた社会人としての人間の、真の現実事情を直視し、文学において常に貴重である素朴さをもって、その点に一般の憂悶を喚起しなかったのであろうか。
 現代文学の精神のなかで、婦人作家と「女心」とがどう見られているかということは、日本のおくれた社会の歴史と、そこにつながる文学精神そのものの、全く日本的な歴史性を語ることなのである。
 さきに引用した文学時評のあらわれた前後に、社会の現実に生きているありのままの女、少くとも男の見る女とはちがうように多くの婦人作家は女を描いている、ということを一人の作家が注目している。「それが女の裸の心というわけではない」「女流作家たちは、人形に着物をきせるように、女の心をこういう風に装うのだ」きっと、「女そのものが装いなしには存在しないように、女の作家は自分の筆で装った女を私たちに見せるのだ。女流作家の芸術とは、そういう装いにあり、それを装いであるが故に嘘だとするのは私たちの短見なのだ。」そして、その装いのため一種の「絵中の女」となっている婦人作家の女たちが、「そのためにかえっていとおしくなるの
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