の活動を示すことになった。
当時の文芸時評のなかで、或る作家が次のような意味を語った。婦人作家たちがひたむきに芸術至上主義に燃え立っているさまは見事で、今日においてはそのこと自身十分に意義を有している。しかしそれというのも、婦人作家たちが、外的世界に対して外延的な視力をもち合わさず、唯内側の狭い女心に執し、文学の香気や個性に立てこもって、依怙地なほど各自の風格を守っている。男の作家たちはこの数年来歴史の風波に揉まれ現実に圧倒されて、芸術至上の余裕だの風格だのを失って、摸索、焦躁におかれている。女性の作家たちは生々しい現実に下手に煩わされていないための怪我の功名が、現在の活溌な様相だとあれば、彼女たちの小説の評価はどうなるか、と。更につづけて、肝心なのは、このことが同時に日本における女性の生活状態の低さを物語っているという事実。いやあの芸術至上主義から自分を解放するようにつとめるのが、彼女たちの芸術至上主義の任務かもしれない、と。
この評言は、当時やや社会的な視角から婦人作家について云われた、殆ど唯一の文章であった。そして、今日までいろいろなところでこの見解が追随されている。
けれども、こまかに眺めると、この時評の言葉の中には、どっさりの課題が、比較的安易にいくらかの高飛車に投げ込まれていることがわかる。
この文章でも、「婦人作家」と云えば、その一人一人にどんな資質の相異があろうとも、その事実にはおかまいなく一からげにして扱って来た従来の習慣がくりかえされている。「婦人作家たち」がひとからげにして、その外界への視界の小ささを云われている。だが現実に即して観察したとき、果して、そのようにおおざっぱに云い切ってしまえるものであろうか。唯一人の婦人作家も、外界の現実に向ってひろげられている視力を持ち合わしていないと、果して云い切ってしまえるものだろうか。
更に、婦人作家たちがひたむきに燃え立っている芸術至上主義と云われているものについても、私たちにはそこに複雑な外界世界との錯交を見るのである。
多くの婦人作家が、何故にただ内側の狭い女心に執し、文学の香気や自身の風格に立てこもることになったか。それは、「婦人作家らしい匂い」とか「婦人作家にしか描けない女心」とかいう批評の基準で、婦人作家の作品を扱って来た従来の日本文学の偏頗《へんぱ》な好みと、切っても切れない因果
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