年以降)

 この一二年間、婦人作家の活動が目立った。真杉静枝は短篇集『小魚の心』『ひなどり』などをもって、大谷藤子は『須崎屋』をもって、窪川稲子『素足の娘』、矢田津世子『神楽坂』、美川きよ『恐ろしき幸福』『女流作家』、円地文子『風の如き言葉』『女の冬』、森三千代『小紳士』、大田洋子『海女』『流離の岸』、中里恒子『乗合馬車』、壺井栄『暦』など、出版された作品集の数も近年になくどっさりあった。そして、もし次のことがそれぞれの婦人作家の永い文学の途上で何かを意味することであるならば、中里恒子は芥川賞をうけ、大田洋子は朝日の長篇小説の懸賞に当選した。壺井栄は十六年度の新潮賞をうけた。昭和十四年度には、「婦人作家の擡頭」というような文字もジャーナリズムの上につかわれたのであった。
 しかし、これらの婦人作家たちの経て来た現実や、生れている作品の性格に親しくふれてみた場合、果してそれは、新鮮な社会と文芸との潮流を想像させるような「擡頭」と形容される本質のものだろうか。
 十四年度に活動した婦人作家たちは、文学の道に入ってからの年月において、決して新進ではない。どのひとたちも、みんな殆ど十年の歳月を、文学の道に費して来ている。真杉、矢田、大田この三つの名は嘗て『女人芸術』が長谷川時雨によって出されていた時代から習作風な短篇とともに知られていた名であった。初めは戯曲家で出発した円地文子の名が、記憶にあるのは久しいことであるし、地味な大谷藤子が、ぽつりぽつりと発表して来ている作品の数も既に少くない。中里恒子という作家の一種の作風に馴染んでいた読者の層は、「乗合馬車」よりも、何年か昔にさかのぼって数えられるであろう。よそめには、一番新しく作品を書きはじめたように思われている壺井栄でさえも、十年ばかり前からいくつかの作品は書いている。池田小菊が「甥の帰還」という作品で示した一定のまとまりまでには、発表した作品も少くなかった。
 何故これらの婦人作家たちの存在が、ほかならぬ昭和十四年において、俄かに、群れ立ったような印象で雑誌の文芸欄を賑したのであったろう。そこには極めて複雑な要因が潜められていた。
 先ずこの現象を考えようとするとき、私たちを沈思させる点は、この時期の婦人作家たちの活動が、決して現代日本文学の興隆の表現でなかったし、そのような本質のものとして歴史的に見られるものでもない
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