力」などとして見られる。同時に、このように生命力の多様な発現の姿に興味を示した作家の世界が、そのつよい色彩や濃い描線にかかわらず、いつも一種の暗さと頽廃を伴っているのはどういうものであろう。生命のあらわれ、その躍動として、人間万事のいきさつを見るこの作家は、それを全く自分の感性の世界においてだけ感じとり、くみ立てた。動き、進み、古葉をどんどんおとして更新しつつある歴史の足どりのなかに、それに相応ずる発現として「いのちの力」を把握する能力をもたなかった。従って、岡本かの子の主観的ないのち[#「いのち」に傍点]の感覚は、はげしさにかかわらず、自分一個の経験範囲、その伝統、その限界を超えることがなかった。その経験、伝統は、かの女によって少からず誇りをもって語られる旧家「しにせ」の環境であり、それは、どんなに溌剌としていそうでもつまりは旧い皮袋につめられた酒であった。高揚の状態が目ざましければ目ざましいほど、そのあてどない生命力の燃焼のかげは濃い頽廃に息づいた。「渾沌未分」にしろ、「やがて五月に」にしろ「母子叙情」においてさえも。
このように、明るそうでありながら真実には暗い岡本かの子の文学の境地は、まざまざと当時の「人間復興」の不幸な本質をてりかえすものであった。いのちあふるる美しさとよろこびとは、それが人間生活のたゆみない営みの上に、何かよりよいもの、より幸福になる力としてふりそそぎ、つちかわれ育ってゆくからこそである。人間の溢るるいのちが、かの子の芸術におけるように、ひたすらに溢れ、夜もひるもあふれ虹を立て風にしぶきながら、しかもそれ以上は何の積極の作用も現実生活にもたらさない流転であるならば、旺なる横溢そのものに、哀愁が伴い虚無感が伴いそして恐怖がある。岡本かの子は、意味のわからない生命のあふれ、その浪費に頽廃と美しからざるものへの悲哀を感じれば感じるほど、一層はげしく一層身も心もうちかけて、現象的ないのちのあふれに美を装い、その人工のきらびやかさで暗さと恐怖をうち消そうとしたように見える。岡本かの子は、自分の心を休ませないそういう切ない熱望を、芸術的情熱という風に自覚し、更にそれを古風に、誇るべき家系の負担として語っている。それ故、かの子は、底に悲哀を湛えた自分のこころが追い求めている美への耽溺を、自己陶酔という評言で批評されることに反撥した。彼女の旺な生命力の
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