な情熱の具体化の道は、半封建の日本で小山いと子の前に開かれてはいないのである。「熱風」のような題材には、表面にあらわれた事件として作品に語られているいろいろのいきさつのもっと奥深いところに、決定的な事情として横わっている国際間の政治的な支配力と支配力との間の微妙な動きについての洞察が、文芸以前に現実をつかむ予備知識として作者に求められる。
 歴史の現実に立つ社会関係、国際関係、その間に悩む人間関係等についての理解のせまさから、めくら蛇におじず風に謙遜でなくなって、現実への畏れを失い、作者の我が思うところにしたがって勝手に生活的真実を料理してゆくことになっては、作者が望むと望まないにかかわらず、「生産文学」が今日の社会と文学の現実に対して犯したと同じ誤りに陥ることをさけ得ないのである。
 小山いと子という作家が、いつも勉強した題材によって作品を描こうとして小さい自分の身辺にからまるまいとする欲望を示していることは、十分注目され、鼓舞されなければならないと思う。それにもかかわらず、この作家は、自分の野望のたくましさと、それに矛盾する日本の社会的条件のわるさについて、あまり関心がなさすぎる。云わば呑気すぎ、無智すぎる。そういう社会的な理由に対する作者自身の無自覚に加えて文学の世界の人々は「熱風」や「オイル・シェール」の文学的失敗の結果についてだけやかましく云って、只の一言もその作の貧困をもたらしている日本の社会文化生活の貧困条件について、いきどおらない。このことを、私たち婦人作家は深く銘記させられる。小山いと子の貧寒は同時に日本の全作家が、男女にかかわらず、その生涯にわけもっている近代作家としてのマイナスである。そのようなマイナスを与え、一人のアリス・ホバードも、一人のパール・バックも生れ出られない旧い日本の生きかたに対しては、鋭いと思われ、思っている室生犀星の神経さえ一向に働かない。彼はただ女は女のことを書くように、と云えただけであった。新しく文学に登場した新しい失敗から、文学者のためになる批評、文学を発展させる能力となる反省は一つも導き出されなかった。「女は女のこと」と云われるとき、小山いと子の心に何が浮んだであろう。彼女は再び出口のない女の歎きにかえるしかしかたがないのであろうか。そして、その歎きを真実打開しようとする努力も失って、歎きさえ女の一つのしな[#「しな」
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