めた時代の、戦争が万事であった日本の侵略的空気、技術も文学も、外国そのものさえ軍事目的をもって考えられた時代を背景として見た場合、彼女の題材の拡大には、文学上周到な省察が加えられなければならなくなって来る。
「熱風」にしろ「オイル・シェール」にしろ、婦人作家としては珍しく、見知らぬ外国を背景として、そこでの日本技師のダム工事にからむ事件や人造石油製造工業技術の発展に絡む人事などが扱われている。作者は熱意をもってそれらの事件の経緯を調べ、可能な限り見聞をあつめて描いているのだけれども、それらの作品が、題材負けしたことと、登場人物の心情が、生ける人間の姿として読者に迫って来ないことなどを共通な弱点とした。これは、何故であったろうか。
 日本の女性全般が今日の社会生活の中でその肉体と精神を絡めとられている矛盾が、この作家一人の成長の道の上にも、深刻な困難として横わっているのが見られる。第一、この作者小山いと子が屡々創作慾を刺戟されているような巨大な土木工事というような社会的建設の複雑な場面に、日本の女性はどんな必然のつながりを持った経験があっただろう。日本にはまだ婦人の建築技師さえ出ていない。「支那ランプの石油」の著者アリス・ホバードが、アメリカの一女性として、スタンダード石油会社の勤人の細君として、中国で経験しただけの経歴さえも、日本の女性は持っていない。良人とともに外国住いした日本の妻たちは「あちらの婦人なみ」に話し、身じまいをして、彼女等のマンネリズムに順応するだけが精一杯でやって来ている。西欧の近代ブルジョア文化は、模倣に熱心な日本の女性にさえそんな苦労をさせるほど、物質的に、精神的に日本に先行しているのである。中国、朝鮮などに、日本の侵略と無関係なただの一人の日本婦人も行ったことはなかったと云えるような悲運におかれているのである。それかと云って、調べた文学として、題材を研究し調査しただけで、作品のリアリティを生むほど、日本の婦人作家は諸工業、技術、技術者の心理というものに通暁しているだろうか。その答えは、今日の日本の文化全体の水準から見ておのずから明白であろうと思う。ソヴェト同盟の老婦人作家シャギニャーンが、三年の間、日夜その事業の進行と共に建設する人々の中で生活して「中央水力発電所」という小説を書いた。婦人作家として、社会的条件の上で可能とされている、そのよう
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